悟りの証明

仏教の一隻眼

悟りの証明(44)

主知主義者である吉本は倫理というものを全く理解していません。この講演のような愚かな知を拡散すること自体が倫理に反する悪であることを認識していないのです。<真の倫理は倫理を否定する>ということ、<「人知」によって倫理を語ることが悪である>という認識が全くないのです。『悪人正機説』は倫理を説いているのではありません、倫理を拒絶しているのです。『悪人正機説』は「人知」によっては決して解くことが出来ないような仕掛けになっています、「人知」を拒絶しているのです。倫理を説かないことで真に倫理を説いているのです。一神教キリスト教ユダヤ教イスラム教)は倫理を説くことを宗としていますが、仏教一般、殆ど倫理は説いていません、倫理を説けば説くほど<向かえば背く>ということを知っていて、自らを戒めているのです。しかし、それでも倫理は説かなくてはならないという矛盾、そこに仏教の苦悩があり、本質があります。

 

説くということは、「人知に頼る」ということです、情意を無視し、情意を圧迫するということです、円満な知・情・意を具えた人格を否定するということです、情意が欠落した『主体なき理性』を育てるということです。「知識人」という存在自体が悪なのです、「事実の報道」よりも低次のコメント(意見)に終始するメデイアの存在そのものが悪なのです。<知の情意に対する越権><知の専横><知の全体主義>、それこそが現代社会の大問題なのです。

 

私たちが言語を駆使し論理的に思惟するとき、そこには無意識に「我の立場」があります。思惟するということは<我を立する>ということです、<我の立場>抜きに思惟=<人知>は成立しないのです。

 

私たちが倫理・道徳を語るとき、善悪を語るとき、無意識に悪は語りますが、善は語っていないのです、つまり、倫理の<積極的な意味>は語っていないのです。真の倫理には積極的な意味、積極的な側面がなければなりなせん。吉本は、この講演においてオウムの悪やアメリカの原爆投下の悪を語り、そのような巨悪に対するために「新しく大きな倫理の基準」が必要であるとは語っていますが、講演全体を通して善については何も語っていないのです。法律・規則・道徳・常識等を強化したところで息苦しく(生苦しく)なるだけです。むしろ、私たちが志向すべきはこれらの圧迫をすべて撤廃することです。

 

仏教は倫理の積極的な意味を説きます。<自由にして則を越えず>を説きます。私たちが物事に<思いをやる>とき、物事に<感情移入>するとき、すなわち<三昧にひたる>とき、そこには「物事との一致」(一つになること)、すなわち<愛>という意志と感情だけがあり、<人知>はありません。<愛>を阻むものは何もありません、全く自由です、そして<愛>あるところには決して悪はありません。親鸞の<信>は人知を拒否し、私たちに自由を保障し、意志と感情によって<ハタラク愛>を要求しているのです。

 

いかなる巨悪も私たち人間が犯すものです、私たち一人一人の一心に帰するものです。<思いやる>ということは概念ではありません、知識ではありません、<人知>で知ったからといって何の意味もありません。<思いやる>とは行為であり、行動であり、実践であり、<無我の行為>すなわち<仏行>なのです。

 

(つづく)