悟りの証明

残日録

悟りの証明(43)

吉本隆明の183講演(要検索)の一つ『親鸞の造悪論』に対して、批判を続けます。

 

「だから、現在の状況では、やっぱり、理念が存在することも、それから、宗教が存在することも認めなければならない。それは、迷妄な部分をもっていても認めなければならないっていうのが、現状だと思います。ですから、この現状を肯定する限り、どういうことが問題になるかっていうと、それは生粋の宗教家なら信仰の問題が出てくるわけでしょうけど、ぼくらからみると、信仰の問題を、倫理の問題に置き換えた、つまり、善悪の問題に置き換えた、つまり、日本でいえば、浄土真宗系の思想っていうのが、現在の市民社会に流布されている善悪の基準を、どこかで、いくらかでも超えて、違う基準で、あるいは、それを拡大した基準のところへいけるかどうかってことは、非常に大きな問題になります。」

 

この文脈の背後には、いかにも吉本らしい或る思想が見え隠れしています。それは、マルクス主義者(吉本自身はマルクスを卒業したといっていますが)らしい「倫理革命」という狂った夢です。吉本は浄土真宗にかこつけて、現在の日本社会(あるいは国際社会)に流布されている善悪の基準(道徳の基準)を拡大して、世界市民レベルの普遍的な基準があるべきであると主張しているのです。しかし、仮にこの世界市民レベルの新基準が実現したとしても、カントの『仮言命法』の域を出ないものであり、私たちがこの新基準を得ることで、非常に息苦しい社会生活を送らなければならなくなることは目に見えてます。法律、道徳、常識等の強化は、何も「倫理革命」を待たなくとも、常に進んでいくというのが世の常です。何もせず放っておけばいいのです。

 

吉本の倫理に対する考え方は根本的にまちがっているのです。真の倫理は『自由にして則を超えず』という「倫理を不必要とするところにある」のです。真の倫理は、倫理を必要としない、健全な人格を持った、円満な人柄の人材を育成することなのです。倫理などは気にもしないで、自由に振る舞っていて、それでいて「自ずと」人としての道を踏み外すことのない人格者であってこそ、単に倫理を守って生きる人以上の「積極的な意味」があるのです。現在、桝添東京都知事の不適切な出費をめぐって連日マスコミの袋叩きにあっています。桝添は、この問題の本質を理解することなく、「私は法律・規則・道徳には反していません」と強弁に終始しています。しかし、マスコミや私たちが桝添に問うているのは、「人としての道に外れているとは思わないのか、人として恥ずかしくないのか」という人格を問うているのです。

吉本は桝添と全く同じ人種で、<真の倫理は倫理を否定する>という倫理の本質を理解していないのです。<真の倫理は倫理を否定する>、まさにこれこそが親鸞の『悪人正機説』なのです。

 

吉本の倫理思想は間違いであるばかりではなく、私たちの社会に害をもたらすものです。仮に、吉本が求める「世界市民レベルの倫理の新基準」なるものが実現したとしたらどうなるでしょうか。私たちの日常は、「これはやるべきか、あれはやるべきでないか」と一々「新基準」に照らし合わせて「知」によって判断し、「意」(意志)や「情」(感情)に命令を下して行動するようになることは必定です。これは何を意味するでしょうか、「知の情意に対する越権」「知の専横」「知の全体主義」、まさにこれこそが現代社会の最大の問題なのです。私たちは知の洪水、情報の洪水にあって、溺死寸前の状況にあります。いみじくも三島由紀夫が指摘したように、現代は『主体なき理性』の時代です。知・情・意、三位一体となって始めて主体なのですが、情意が欠落して、知だけがはびこる時代、それが私たちが今生きている現代なのです。

 

『自由にして則を超えず』などと言えば、聖人君子にして始めてその境地に達するもので、私たちには無縁であると思われるかも知れませんが、決してそうではありません。ただ、単純に、素朴に「思いやる」心があればいいのです、ただ「感情移入」が出来ればいいのです、「三昧に入」ればいいのです。私たちが人や自然に「思いやる」とき、そこには我はありません、「無我」です。私たちが人や自然に「思いをやる」とき、そこには人や自然と「一致」しよう、「一つになろう」という意志と感情があります。つまり、『愛』があります。『愛』あるところに悪などというものがある筈がありません、倫理意識などと言うものはないのです。『自由にして則を超えず』なのです。

 

私たちのお爺ちゃんお婆ちゃん、私たちの先祖は、決して、吉本のような小理窟をこねまわすことなく、素朴で実直で寡黙でした。神道の「言挙げせぬ」、仏教の「不立文字」を地で行く人々でした。

 

宗教が宗教として意識されている時は、未だ宗教とは言えません。宗教が空気みたいになって、無意識になって、慣習となって、無意識の意識として働くようになってはじめて宗教の真の威力がハタライテいるということになります。日本人は無宗教だと自他共に認めていますが、それでいいのです。皇紀2676年、仏歴2559年、この悠久の歴史の流れの中で、じっくりと醸成されてきた日本の宗教は「慣習法」となって私たちを暖かく包み込んでいるのです。私たちは孫悟空のように、お釈迦様の掌から一歩たりとも出ることが出来ない、出る必要もない存在なのです。私たちの内に「無我のハタラキ」「無意識の意識」「無知の知」「無作の作」は常にハタライテいるのです、これが私たちの「命」というハタラキです。

 

(つづく)