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悟りの証明

仏教の一隻眼

悟りの証明(41)

吉本隆明の183講演(要検索)の一つ『親鸞の造悪論』に対して、批判を続けます。

 

「それから、宗教思想の迷妄な部分は、かならず、理念的になっています。ようするに、なにかイデオロギーになって出てきてしまいます。つまり、それが、現在における、現実の社会を超えようとする場合に、あるいは、現実社会より、すこしでもいい社会とか、いい条件っていうのはつくれるかってことを、心の中で考えているひとたちが、左翼思想になったり、それから、宗教思想になったりするとすれば、かならず、その迷妄な部分は、宗教性としてあらわれるか、イデオロギーとしてあらわれて、自分が自分のなかで固執して、おれは信念を持っているとか、信念を持ったマルクス主義者だと言いながら、おまえの信念っていうのは、ただ信仰しているってだけじゃないかっていうふうになっちゃう、それは、世界のいかなる大インテリといえども、やっぱり、そこのところはまぬがれていません。つまり、完全にそれをまぬがれている理念もなければ、そういう宗教もありません。それが、世界における現在の思想の段階であるってことは確実だと思います。つまり、本来的に、そういう迷妄さが、理念、イデオロギー、それから宗教から、迷妄さがなくなったとしたならば、いわゆる宗派性、あるいは、党派性っていうものは消えていくわけですけど、それは、残念ですけど、いまの段階では、その迷妄さっていうのは、どちらのかたちをとろうと、宗教のかたちをとろうと、理念のかたちをとろうと、かならず、その迷妄さを抱え込んでしまうっていうのが、世界の現在の現状だと思います。」

 

これがファッションに憂き身をやつした吉本の実感なのでしょう。これが仏教までもファッションにしてしまった吉本の不幸というものでしょう。晩年になって親鸞の研究に打ち込んだにもかかわらず、親鸞を理解することなく逝った吉本の不幸が正にここにあります。「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」。この吉本の不幸は何に由来するのか、答えは唯一「吉本は主知主義者」であったということです、吉本は「主体なき理性(三島由紀夫の表現)」であったということです。吉本は人間の知というものを過信し、客観視することが出来なかったのです、つまり吉本にとっては「知が信仰」であり、「知が神」になってしまったのです。これは何も吉本一人の問題ではなく、現代社会が抱える最大の問題なのです。「知の情意に対する越権」、本来豊かな人間性を「知の牢獄」閉じ込めようとする全世界的な傾向なのです。

 

吉本は倫理を知によって解釈しようとしていますが、倫理は知に属するものではなく、意(意志=行為=実践)と情に属するものです、つまり「三昧に属する」ものです。吉本のような人間は「これは善いことだからやろう」「あれは悪いことだからやるべきではない」といって、知で意を制御しようとするタイプです。しかし、「思いやり」のある人は善いとか悪いとかの知的判断で行為するのではありません。「思いやり」とは無我で他者に思いをやり、無我で他者に感情移入出来る人です。つまり「思いをやる」ということは「三昧」ということなのです。

 

(つづく)