悟りの証明

仏教の一隻眼

悟りの証明(40)

吉本隆明の183講演(要検索)の一つ『親鸞の造悪論』に対して、批判を続けます。

 

「信仰の問題を、浄土真宗っていうのは最も最初に、一種の善悪の問題、つまり、倫理の問題に、一等最初に置き換えた宗派なわけです。つまり、仏教の僧侶の出家の修行っていうのは、ようは、オウム真理教がやっているように、ヨーガ的な、ある境地を獲得するための修行っていうのを、お坊さんがやってきているわけです。しかし、法然親鸞も、もちろん、比叡山にいるときに、それをやったわけです。しかし、やっぱり、そこで疑いを生じたわけです。」

 

このブログを最初から読んでいただければわかることですが、上記は全く仏教の本質を知らない愚見です。浄土真宗は信仰を倫理に置き換えた最初の宗教ではありませんし、僧侶の修行はヨーガ的なものでもなく、ある境地を得るためのものでもありません。仏教は、端的に「自覚・覚他」すなわち、先ず自らが悟り、その後、その悟りを他に伝え広めて、悟りを永遠たらしめる、ということを目的とした宗教です。浄土真宗は「還相に力点を置いた宗派」「覚他に力点を置いた宗派」であり、禅宗は「往相に力点を置いたの宗派」「自覚に力点を置いた宗派」です。親鸞は「自覚」すなわち悟りを得るために、比叡山で20年間修行しましたが、悟りを得ることが出来ず、失意のうちに下山しました。しかし、皮肉にも下山直後に悟りを得て、自らを『愚禿』(はげあたま)と称するようになります。親鸞にとって『愚禿』とは悟りの矜恃(自尊)を意味すると同時に自らの過去を省みて、20年もの間、全く見当違いの修行(向かえば背く)をしていたことへの反省と矜持(自粛)とが交錯した自虐的な表現です。更に、この『愚禿』には、「自覚」したからには「覚他」へ進まなければならないという使命感と、そのためにはどのようなスタイルでどのような布教を行うかということに対する親鸞の戦略と決意が伺われます。『悪人正機説』は親鸞が練りに練った戦略なのです。(悟りの証明(38)を参照)

 

倫理・道徳とはある社会におけるルールに過ぎません。ある社会の法律や道徳や常識に従ったからといって、それは当然(最低限)のことで、そこには何ら美徳というものはありません、「人格」というものはありません、「積極的な意味や価値」というものはありません。上述のように親鸞の浄土真宗は決して信仰の問題を倫理の問題に換えた宗派ではありません。むしろ、人間の倫理は「自力」であるが故に人間倫理→人間意識→二次的意識そのものを否定しているいるのです。そしてこの否定は、私たちをして「生の根拠」である「三昧」「一次的意識」に導こうとしているのです。

 

吉本の「オウム真理教がやっているように、ヨーガ的な、ある境地を獲得するための修行っていうのを、お坊さんがやってきているわけです。」という主張も全くの不勉強です。実際、ヨーガとかある境地を求めるような仏道修行は皆無です。このような見解が出て来るということは、吉本自身が麻原彰晃の詐欺に引っかかっていたという証左に他なりません。当時は麻原の空中浮遊や中沢新一チベットにおける瞑想(迷走)不思議体験がファッションだったので、無理からぬ事かも知れません。それにしても、私たちが、今ここにこうして生きているという根本的な不思議体験・奇跡をさておいて、わけのわからない不思議を求めるとは、全く屋上屋の極みとしか言い様がありません。

 

因みに、日本の知識人、言論人、思想家、リベラルといわれる奇妙な種族は、例外なく、海外のファッションが好きで、我先にと競ってコピペに勤しみ、自己満足するといった、私たち大衆には全く理解不可能な存在です。所謂形而上学から形而上学批判→現象学実存主義記号論構造主義→ポスト構造主義等々、変転めまぐるしいファッションを追いかけながら空理空論を展開し、知の浪費に血道を上げるというのが彼らの特徴です。吉本はマルクス主義と実存主義というファッションがお好みでした。

 

(つづく)