悟りの証明

仏教の一隻眼

悟りの証明(39)

「悟らずして仏教を語ることなかれ」に反して、仏教を語った吉本隆明の「愚の思想」を分析してみることも一興であり、仏教を深く知る上でも意義あることと思います。

 

吉本隆明の183講演(要検索)というものがあり、その中に『親鸞の造悪論』があります。

 

「(前略)オウム・サリン事件で僕なりにいろんなことを考えました。親鸞が「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」といっているのは一種の逆説で、逆説のほうが通りやすいといいますか、持続しやすいということがあって、どんどん突き進んでいったというふうに僕は考えてきていました。ところが、親鸞はもしかすると、いまのオウム・サリン事件みたいな問題に現実に直面して、これを肯定していいんだろうか、よくないんだろうか、と本気になって考えさせられたあげくに、「造悪」、悪を進んで造る「極悪深重の輩」を自分の「善悪」観のなかに包括できるという確信を持てるようになるまで考え抜いて、それで「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」ということをいったんだ、と僕は考えてみました。(後略)」

 

親鸞に「善悪」観などというものがある筈がありません。「三昧の世界」「仏の世界」「無我の世界」「一次的意識の世界」に善悪などというものはありません。絶対無の浄土に道徳などというものはないのです。

 

 

「(前略)そういうことで、自分は律令制が決めた僧尼令の埒外に追い出されるわけです。また、僧侶として解決しなかったという意味で、非僧非俗、つまり、僧でもなく、俗でもないっていうのが、自分の信条だって自分を規定しまして、それから、いわゆる出家っていいますか、出家主義っていうのを否定しまして、それから、先ほどいいましたように、寺院っていうのを設けるっていうのも否定しました。それから、お寺の仏像を備えるってことも否定します。それから、経文を読むってことも否定します。(後略)」

 

親鸞の「非僧非俗」は「無所住心」ということで、僧にも俗にも「とどまらない」という意味です。無我のハタラキは何処にもとどまることはありません、とどまったらハタラキは失せてしまいます。出家であろうが在家であろうが悟道(悟りを得る道)には関係ありません。寺院や仏像や経文等の否定は親鸞に始まったことではありません。仏教の本来は本尊たる仏像すらもなかったのです。仏教の堕落は、ガンダーラ地方でギリシアの影響を受けて仏像を建立したことに始まります。それ以前は、仏陀のシンボルとして仏足石や法輪があっただけです。無我のハタラキは見えないものであり、見えてはならないものです。古仏達は寒さをしのぐために、木造の仏像を燃やして暖をとり、経典をデイッシュ替わりに使っていた事もあったのです。経文は読むものではありません。経文は「口から出まかせ」でなくてはなりません。経文は「意識」して読むものではありません。経文はすべて暗記し、「無意識の意識」「無作の作」で唱えるものです、「無意識の意識」を意識して、「自然の意識」である「無意識の意識」を活用する「使然」でなくてはならないのです。

 

「これから何が推理するかっていいますと、ようするに、親鸞の教義の場合には、親鸞の考え方の場合には、浄土真宗とは何かっていったら、第十八願である信仰をもっぱらいって、念仏称号、つまり、南無阿弥陀仏っていうのを唱えれば、かならず往生できるっていう教義なわけですけど、その場合に、なんら前提をもうけずに、そういうことをはっきりと言っているわけです。」

 

浄土系以外の仏教では「教行証」を宗としますが、親鸞の浄土真宗では「教行信証」で、「信」が肝になっています。何故「信」なのか。私たちが何かを信じたとき、そこには何ら思惟の入り込む余地はありません。つまり、親鸞の「信」は「人間意識」「二次的意識」を封じて、一気に「仏の意識」「三昧の意識」「一次的意識」に導くという、「信」をもって「易行」となすという意味が込められています。従って、「南無阿弥陀仏」の称名には何ら意味があってはならず、「無意味の意味」「義なきを義」とするものでなくてはなりません。念仏称名のとき、そこには「無分別の分別」「無知の知」「無意味の意味」「義なき義」「無作の作」が現成して、「仏の世界」が開示されると言うことになります。

 

「ぼくは、現在の問題で不可解だと思うのは、現在、オウム真理教の問題が出たってことで、この場合、いってみれば、これを単に法律的な刑罰の問題にゆだねてしまうってことは、仏教としては死んだってことを意味します。つまり、それくらい重要な、信仰、不信ってことについては、重要な問題を提起しているわけです。

だから、これに対して、文句があったり、否定的な意思があったりするならば、浄土真宗の教団は、教団としても、それから、個々の僧侶としても、これを徹底的に否定するとか、批判するとかってことをやったらいいんですけど、そんなやつはひとりもいないわけです。浄土真宗の教団にはひとりもいません。ただ、現在の市民社会における善悪の常識、つまり、法律の常識のあとにしたがって、それに遠慮しながら、あれは仏教じゃないので、悪の宗教で、あれが悪だからといって宗教法を改定するのはおかしいみたいな言い方をことごとくやっています。」

 

この「仏教業界」批判は至当だと思います。オウム事件は日本の倫理の根底を揺るがす大事件だったにもかかわらす、仏教業界からは殆ど確たる見解が示されなかったというのは事実です。見解が示されなかったというより、示すことが「出来なかった」というのが実情だったのでしょう。仏教界としては、この事件を機に、仏教の存在意義を示す好機であったにもかかわらず、それが出来ず、却って吉本のような「主体なき理性」「主知主義者」の批判を甘受しなければならないとは、無様としか言い様がありません。

 

しかし「徹底的に否定するとか批判するとかってことをやったらいいんですけど、そんなやつはひとりもいないわけです。」というのは嘘で、ある本を出版した名も知れぬ者がいたし、その本を真剣に読んだ人々がいたというのは確かな事実なのです。

 

「つまり、慈悲っていうことを抜かしたら、そんなのは宗教でもないし、仏教ではないっていうくらい重要な概念です。浄土真宗でも重要な概念ですけど、どこの宗派でも、仏教である限りは、慈悲っていうことは、非常に重要な概念になります。

それだけど、ちっとも、オウム真理教の善悪くらいの問題だったらば、自分たちがそれを包み込んでいけるっていう、包み込んでなおかつ、善悪の問題、それから、信仰の問題を提起できるっていうような、そういう坊さんが一人ぐらいいてもいいんだけど、そんなのいないわけです。」

 

誰でもが、今現在も体験しつつある三昧においては、善も悪もない、つまり人間の道徳を超越して、しかも道徳を抱擁しているということがわかれば、オウム信者達も救われる筈です。罪の重さに苦しめば苦しむほど、それに比例して阿弥陀仏に摂取されて、その暖かい懐に抱かれているという実感が湧いてくる筈です(尤もこの道理を真に理解(体得)することは容易ではありませんが)。罪の意識に苛まれるオウム信者達は悟りを得るための十分な資格を得ているのです。ほんのちょっとだけ彼らを揺すぶってやれば悟りは必定なのです。

 

(つづく)