悟りの証明

仏教の一隻眼

悟りの証明(38)

私たちの「普段の意識」「二次的意識」「人間意識」「人為の意識」に対して、「三昧の意識」「一次的意識」「仏の意識」「自然の意識」が対立します。仏教の要諦は、三昧の立場に立ち、三昧においてハタライテイル「自然(じねん)の意識」「無意識の意識」「無分別の分別」「無知の知」「無作の作」「無為の為」を『意識して活用する』こと、すなわち『使然』というところにあります。この認識に基づいて、仏教の倫理について考えてみます。

 

『諸悪莫作 衆善奉行』

 

これを表面的に解釈すれば「諸々の悪をなさず、諸々の善いことを行いなさい」ということになり、そのまんまで面白くありません。そこでもう少し踏み込んで考えてみると、「莫」と「奉」、「作」と「行」の微妙な使い分けに気付きます。「莫」とは「なかれ(禁止の助字)」で、単なる否定ですが、「奉」とは目上や上位に対して「ささげる、たてまつる」という意味があります。また「作」は人為的な「作為」を意味する一方、「行」とは単に「行う」という意味を超えて「仏の行」「行仏」と解することが出来ます。このように解することで、

 

「諸悪は作為であるから作(な)してはならない、諸善は行仏であるから行じ奉れ」

 

要するに、この至言は、二次的意識=人間意識の否定、一次的意識=仏の意識の肯定ということになり、単に所謂道徳を説いているだけではなく、仏教を説いていることがわかります。

 

『善人なおもて往生をとぐ,いはんや悪人をや』

 

この『悪人正機説』も単に道徳を説いているのではありません。これを「浄土教的」に解釈すると、

 

善人は善行を積んでいるという自負があり、そのことで自らを肯定し、かえって「我に執着」します。一方、悪人は自らが犯した罪に苛まれ、それでも生きる為には「我を否定」する以外に残された道はありません。従って、悪人の方が「無我の世界(浄土)」へ渡る契機(救済)が得られる。

 

また、この『悪人正機説』を禅的に解釈すると、「無分別の分別」「無知の知」の提示と解することが出来ます。禅では「橋は流れて川は流れず」「青山水上行」等といって全く常識外れの「無分別の分別」を敢えて提示し、分別によって成り立っている「人間意識」を否定し、衝撃を与えて、「仏の意識」に導こうとします。従って、『悪人正機説』は「無分別の分別」の提示と解釈することも出来ます。

 

いずれにしても、仏教の教説を解くには、解く側の悟りの有無が問われます。

 

(つづく)