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悟りの証明

仏教の一隻眼

悟りの証明(36)

大燈国師(鎌倉時代の禅僧)にまつわる有名な小話があります。

 

ある役人がまっか瓜(国師の好物)を渡そうとして、国師に向かって「無手で受け取れ」と言ったのに対して、国師は「無手で渡せ」と応じたと言うことです。この話は両者共に「覚者」ではないと成り立たない話なので、良く出来過ぎた作り話に違いありませんが、一体この小話は何を意味しているのでしょうか。

 

先にも幾度となく述べてきたように、三昧の世界(一次的意識の世界)は絶対無・「空」です。絶対無とは私たちが普段意識しているような色んな物事「色」がない、つまり「意識の対象がない」という意味ですが、「意識の作用」は厳然として存在しています。従って、三昧の世界には我もなく手もなく足もなく、あるのはただ「渡す」「受け取る」という「作用」つまり「ただハタラキ」だけがあります。

 

このように、仏教は何故「三昧」を強調するのでしょうか。二次的意識界の住人である私たちは無我のハタラキ=本性=仏性を知ることなく死んでいきます。私たちに与えられた奇跡の生を、二次的意識の根拠となっている一次的意識つまり三昧を知らずして死んでいくのは、あまりにもむなしい生としか言い様がありません。二次的意識の世界は、言語を論理的に駆使して構成された人為的で不自然な世界です。この世界は時間・空間・因果律によって支配されている「不自由な世界」です。カントは私たちに自由がなければ神も霊魂もあり得ないとして、自由を論理的に要請したに過ぎませんが、仏教は悟りという宗教体験によって、自由や神(仏)を実証しているのです。

 

一瞬の三昧において「鳥が飛んでいる事実」を直覚するとき、私たちは「このシーンのすべて」すなわち「動的・具体的・全体」である「事実」「現実」をつぶさに把握します。しかしその後、継起してくる二次的意識によって「鳥が飛んでいる」と主語と述語で、言語と論理によって、「人為的」に再構成して「静的・抽象的・部分」に転化しているのです。「鳥が飛んでいる」では満足できず、「二羽の黒い鳥が西に向かってゆっくりと飛んでいる」という風に、それぞれの単語に修飾語を加え、述語数を増やしていって、どこまで行っても、三昧で直覚した事実・現実認識にはとうてい及ばないのです。(つづく)