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悟りの証明

仏教の一隻眼

悟りの証明(34)

宇宙のハタラキ(力・エネルギー)は人間のハタラキ(生命力・精神力)として降臨(神人同性)するだけではなく、一切の物に降臨(神物同性)し、八百万の神々を現成させ、この宇宙・この世界を「ハタラキの世界」「生命の世界」に転じます。所謂自然は無意味な物質からハタラキ(エネルギー)に転じ動的世界・生命の世界すなわち『諸行無常』となります。

 

しかし、ここで述べている「ハタラキ」を「自観」することは容易なことではありません。

 

或る禅師は、弟子には何も教えず、来る日も来る日も、終日、庭前の石ころに向かって話をしていたということです。当然、弟子達は去り、訪れる修行僧もなく、寺は閑散としていました。ある日、一人の修行僧が訪れ、垣根越しに、禅師の石との会話の様子を見るやいなや、禅師に駆け寄り、弟子入りを請うたと言うことです。この時、修行僧は確かに「ハタラキ」を「自観」することが出来たのです、悟ったのです。修行僧は悟りを求めて諸国を彷徨い師に教えを請いますが、教えを学ぶということは「傍観」に過ぎません。何かを真に知ると言うことは「自観」すると言うことです。教えを請い、その結果、知れば知るほど「山から遠のく」すなわち『向かえば背く』という矛盾に生きなくてはならないのが修行僧であり、私たちです。それ故に、神道では「言挙げせぬ」といい、禅では「不立文字」といって、いずれも言語による知識を拒みます。

 

「不立文字」の後に「教外別伝 直指人心 見性成仏」と続きます。言葉(概念)では伝えられない、教としては教えられない「ハタラキ」そのものを、教えではない別の方法で、上記の師の石との会話のように直指することによって、性すなわち本性=「ハタラキ」=仏性を「自観」させ、仏と成らしめる、というのが禅の宗なのです。

 

「よく見れば薺花咲く垣根かな」 芭蕉

 

晩冬のある日、芭蕉は家を出た瞬間、降り注ぐ日差し(ハタラキ)の中に微かな春を感じ(ハタラキ)ました。芭蕉は、この春の感じは果たして確かなものかとその証を得るために、辺りを「よく見」ました。すると案の定、垣根のそばにぺんぺん草の可憐な花が咲いて(ハタラキ)いました。芭蕉は春の到来を確かなものにしたのです。芭蕉の春はぺんぺん草の春となり、生きとし生けるもの一切の春となり、世界は春の歓喜に満たされたのです。(つづく)