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悟りの証明

仏教の一隻眼

悟りの証明(32)

宇宙のハタラキは人間のハタラキ、すなわち神のハタラキは人のハタラキとして「神人同性」というのが神道であり仏教です。嘗て、日本人であれば生きとし生けるものにはすべて神が宿ると無意識に意識するのが普通でしたが、欧米思想のコピペを専業とする知識人・言論人によて神・仏は抹殺されてきました。

 

「神人同性」とは「一即多」ということです。「一」とは「全一」「全体」を意味し、多とは「個多」「部分」を意味し、「一即多」とは一と多は矛盾しながら自己同一であるということを意味しています。この仏教の論理は「二者択二」を意味しますが、仏教以外の一般的な論理、特に西洋の論理では「二者択一」を意味します。

西洋の論理において、一と多の関係、全体と部分との関係は統一されることなく、全体論(ホリズム)VS還元論、目的論VS機械論といった不毛の「平行論」として発展してきました。

 

「一即多」を理解する上で次の『荘子』に出てくる「混沌王物語」は興味深いものがあります。

 

昔々、南海の王様と北海の王様と中央の王様がいて、ある時、中央の王様である混沌王の所に集まって、盛大な宴会を催しました。歓待を受けた北海の王と南海の王は深く感謝し、返礼をすることにしました。二人は思案の末、混沌王が「のっぺらぼう」であったために、人間のような七つの穴(眼・耳・鼻・口)を開けて、楽しんでもらおうと考えました。しかし、二人が七つの穴を開け終わるやいなや混沌王は死んでしまいました。

 

この物語は、「のっぺらぼう」の混沌すなわち「全一」(全体・連続・絶対無・空)は、七つの穴すなわち「個多」(部分・非連続・有無・色)を持ち込むことよって消滅してしまい、そのことによってまた七つの穴も滅してしまうということを示唆しているのです。全一なるものは個多の出現によって消滅し、やがて個多もまた消滅するということになります。結局、「全一」なるものは知り得ないということを意味しています。私たちが物事を普段の知である二次的意識の分別知・相対知で知ろうとするとき、知るものと知られるものとに分かれて「二」となり、結局全一なるものは知り得ないということになります。従って、全一を知ろうとしたら、どうしても一次的意識の三昧における般若・自知・自己同一知が必要になります。

 

普段の意識(知)ではどうしても「全一」なるものを意識(知る)ことはできず、「個多」のみを意識することになります。このことは私たちを決定的な誤謬にミスリードすることになります。例えば、民主主義といえば誰もが抗えないものになっていますが、このまま行けば人類の滅亡は避けられません。民主主義は人権を基礎にしており、この人権は「自然権」に由来します。自然権は、神が個々の人間に付与したとする考え(神が言ったのか?)と、人間の本性に由来する(人間の本性を見抜いているのか?)という考えがありますが、いずれにしても全一を無視した個多(個々人)は利己的存在となり、ホッブスの「万人の万人に対する闘争」は不可避となります。民主主義は、利己を利己と思っていない利己が蔓延し、言論の自由を謳歌して利己を主張し、利己と利己が衝突し、言論の暴力がやがて所謂暴力に発展し、殺し合うという筋道を辿ることになります。

 

因みに、「全一」の別名を「神」といい「仏」といいます。神と仏の関係はブラフマンアートマンの関係と見るのが至当でしょう。

 

(つづく)