悟りの証明

仏教の一隻眼

悟りの証明(31)

仏教の教説は悟りを得ずして理解することは出来ません。悟りは三昧・一次的意識において般若・直覚・直観によって自覚されるハタラキです。三昧は主客未分の意識状態で、意識の内容(未だ意識対象にはなっていない)のみが現前している状態で、意識作用が意識内容を保持している状態です。無我夢中の状態が三昧ですが無我は決して夢の中にあるのではありません、それとは全く逆に「現実」の中にあります。三昧における意識内容は「動的・具体的・全体」としての「現実そのもの」です。無我とは我がないということではありません。無我とは「ハタラキとしての我」「主観としての我」「意識作用としての我」であり、対する、我とは「客観としての我」「意識対象としての我」です。眼は一切を見ますが、眼自身を見ることは出来ません。見るという作用は一切の物事を対象として見ることが出来ますが、作用自身を対象として見ることは出来ません。しかし、三昧において自ずと(自然に)ハタラク・般若・直覚・直観は作用を対象とする作用で、作用自体を見ることが出来ます。西田幾多郎はこのハタラキ・般若のことを『作用の作用』という表現をしています。平たくいえば、ハタラキ・般若とは意識するものが意識されるものという自己同一知で、この自己同一知を体験的に知ることが悟りということになります。私たちの普段の意識である二次的意識は三昧(一次的意識)における意識作用の内容を、継起する新たな意識作用によって対象化して意識対象界を構成しているのです。つまり、一次的意識の世界は「意識の作用界」「主観界」「空の世界」であり、二次的意識の世界は「意識の対象界」「客観界」「色の世界」ということになります。

 

私たちの意識の動きは、~一次的意識(三昧)ー二次的意識ー一次的意識ー二次的意識~というように交互に時間に沿って動いていきますが、一次的意識(三昧)は「時空の意識」として個立(特立)しているので、継起する「空間の意識」である二次的意識とは直接つながることなく断絶(際断)しています。これを道元禅師は『前後際断』といい、西田幾多郎は『不連続の連続』といっています。浄土宗の『横超』は時間を止めて空間的に一次的意識と二次的意識を行き交うものとしてのハタラキを意味していますが、禅宗の『堅超』は時間的に一次的意識と二次的意識とを行き交うハタラキを意味しています。

 

実在としての時は『前後際断』であり『連続の不連続』ということであり、連続する時と不連続の時、すなわちアナログの時とデジタルの時との両立と連結・統一によって成り立っているということになります。そして、この連結・統一担うものこそ「ハタラキ」「仏性」という唯一実在ということになります。

 

私たちが普段に意識している世界は意識の対象界であり、客観界であり、空間化された死の世界です。私たちの普段の意識はすべてを『物象化』してしまうのです。対する三昧の世界は意識の作用界であり、主観界であり、時間化された生の世界です。そしてこれら両界を統一して真の実在界を形成するのが「ハタラキ」の働きなのです。(つづく)