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悟りの証明

仏教の一隻眼

悟りの証明(29)

我と無我、いずれが「本当の我」・「真我」でしょうか? 答えはいずれでもありません。上来述べてきたように、我とは「ハタラキ」のことです。誤解してはいけないのは、我がハタラキを持っていて、我がそのハタラキを使うのではありません、「ハタラキが我」なのです。従って、真我は我と無我を超越して我と無我とを自由に動き回るハタラキなのです、我や無我に止まっていては「ハタラキ」は失せてしまいます。浄土宗の真我を「横超の我」といい、禅宗の真我を「堅超の我」といいます、これら両者は全く同義です。

 

親鸞は「横超の我」のことを平たく「非僧非俗」といい、禅宗は「二由一有 一亦莫守 」(一は二によってあり、二もまた守ることなかれ)と表現しています。いずれも「真我」とは一次的意識の我でもなく二次的意識の我でもない、これら両者を超越して、両者を行き来するハタラキこそが真我であると説いています。

 

「我とは何か?」、これこそ人間の根源的な問いです。自由、平等、人権、民主主義、政治制度等々、いかなるイシューも詰めていけば窮極的にこの問いに答えを出さなければなりません。

 

因みに、マルクス社会主義思想について考えてみると、その思想のスタートもゴールも間違っています。先ず、そのスタートにおいて、マルクスは「精神と自然・精神と物質・精神と身体」という二元論を是認し、自然・物質・物の方面に一元化すると言う、所謂「唯物論」を展開しましたが、仏教ではこの二元論一元化そのものが成り立ちません。仏教では、精神とは実在を主観的(一次的意識)に見たものであり、物質とは実在を客観的(二次的意識)に見たものであり、両者は見方の相違に過ぎず、元来自己同一であると考えます。物理学の原子世界でも、質量(物質)がエネルギー(ハタラキ)に転換したりエネルギー(ハタラキ)が質量(物質)に転換します。アインシュタイン特殊相対性理論のなかでエネルギー(ハタラキ)E と質量(物質)mが等価であるとする関係式(E=mC²)を示しています。また、マルクスはゴールも間違っていました。マルクスのゴールは、ベンサムの「最大多数の最大幸福」を可能にする社会ですが、そもそも人間の幸不幸は主観的且つ客観的なもので、客観的にのみ論じることが出来ないものです。仏教では「自己実現」こそが人間の幸福であり、自己実現を可能にする社会こそがあるべき社会なのです。私たちの「真我」は精神でもなく身体でもない両者を超越して、自己実現を生き、「当為」を生きる、動いて止まない「ハタラキ」なのです。(つづく)