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悟りの証明

仏教の一隻眼

悟りの証明(28)

「悟る」ことを「見性」と言いますが、「見性」の「見」は、広義では「知る」ということですが、ここでは「直覚・直観・般若によって知る」という意味です。「性」は私たち人間の「本性」すなわち「仏性」を意味しています。従って、「見性」とは「私たち人間の本性である仏性を直覚・直観・般若によって知る」ということになります。「仏性」とは上来述べてきたように「宇宙に遍くハタラキ」=「ブラフマン」であり、このブラフマンを分有する私たち人間のハタラキ=「アートマン」は「意識のハタラキ」すなわち「意識作用」=「主観の作用」ということになります。そこで、悟るということは仏性である意識作用そのものを把捉するということになりますが、ここで私たちはアポリアに直面します。なぜなら、「意識作用」あるいは「主観の作用」は私たちの「意識の対象」にはなりえないからです。私たちの普段の知は「相対知」・「分別知」であり、「対象」を必要とする知です。物事を知るためには、当該の物事を相対化し対象化して対象を据える必要があります。私たちが「意識作用」を知ろうとするとき、「意識作用」を「意識対象」にしなければなりませんが、これは不可能なことです。そこで、悟るために要求されるのが「相対知」とは全く別種の知である「直覚」・「直観」・「般若」です。「知るものが知られるものであり、知られるものが知るものである」という「自己同一知」・「自知」です。仏教は「定慧の宗教」です。「定」とは上来述べてきたように「三昧」を意味しています。「慧」とは三昧において「自ずとハタラいている知」で、これこそが「般若」といわれる自己同一知です。悟るということはこの「般若」のハタラキに「ハッと気付く」ことです。般若は計らいのない自然(じねん)の「無我の知」であり「無意識の意識」・「無知の知」です。

 

私たちの意識がハタラク時、必ず、先ず、「一次的意識」としての「三昧」がハタラキ、次いで普段の意識である「二次的意識」(相対意識)が継起します。私たちは生来「知識の体系」と「価値の体系」を構築していて、この両体系を「鋳型」として、一次的意識で把捉された「動的・具体的・全体」である事実・現実を「静的・抽象的・部分」に変換しているのです。「答えは問いにあり」と言いますが、「問い」すなわち「何」というとき、正にそのとき、未だ二次的意識が働かない時、私たちは一次的意識によって確かに「動的・具体的・全体」を把捉しているのです。

 

仏教は面白い宗教です。所謂一神教キリスト教ユダヤ教イスラム教)とは全く異なり、徹底的に知的で、「悟り」という「ご褒美」があります。(つづく)