悟りの証明

仏教の一隻眼

悟りの証明(27)

仏教ではこの宇宙の原理をハタラキ(動き、活動、力、エネルギー等)と見なし(「諸行無常」)、このハタラキはあらゆるものに遍在し、私たち人間においては意識のハタラキすなわち意識作用として顕現します。この事実は、私たちの普段の意識(二次的意識)以前の意識(一次的意識)である三昧・定における直覚・慧・般若というハタラキそのものによって、ハタラキがハタラキ自身を自覚することによって実証(体験)されます、これが所謂「悟り」です。

 

意識を分析するには、意識作用、意識内容、意識対象等を峻別することが必要です。意識作用は意識内容もしくは意識対象なくして働くことはありません。禅宗における「座禅」は意識作用から意識内容と意識対象の双方を除去する行法で、意識作用の休止を目的にしています。道元禅師は『正法眼蔵』・「三昧王三昧の巻」において、結跏趺坐の所謂「座禅」を三昧の中の最高・最上の三昧、すなわち「王三昧」といっています。座禅は「定の体験」「絶対無の体験」ということになります。

 

意識作用に意識内容も意識対象も与えない体験が「座禅」であり「王三昧」ですが、意識作用が意識内容を保持している意識の状態が所謂「三昧」です。無我夢中でラグビーを観戦していたり、コンサートで音楽に聞き惚れている状態に於いては、ラグビーのシーンや音楽そのものだけが現前していて(自が他に転じていて)、「動的具体的全体」である「現実」が「無意識に意識」されています。この意識が「慧」「般若」なのです。この三昧の状態が破れて、我に帰った時、この意識内容は新たに継起した意識作用によって反省されて「意識対象」となり、静的抽象的部分として二次的に意識され、普段の意識(二次的意識)となります。(つづく)