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悟りの証明

仏教の一隻眼

悟りの証明(24)

所謂リベラルという人種は、欧米に対する劣等感と憧憬を持ち、日本を学ぶことなく、欧米思想を未消化のまま輸入し、「コピペ思想」を吹聴する特殊な「主知主義者」です。朝日新聞は「日本を相対化する」等と傲慢な主張をしていますが、日本(江戸時代以前)を知らずして日本を相対化することは出来ません。リベラルの特徴を一言でいえば「主体なき理性」(三島由紀夫の表現)ということになります。

 

「政治」があるところには必ず、「自由」「平等」「人権」という概念がつきまといますが、これらの概念は日本と欧米とでは抜本的に相違しており、その相違の由来は「自我」にあります。日本人の自我は自と他を統一した高次の処にありますが、欧米のそれはあくまで自と他が対立した処にあります。

 

日本人の自我には「私は私ではない、だから私だ」「我即非我」(即非の論理)という無意識の意識としての自我意識があります。私たちが我という時、既に、非我が「暗に意識されている」のです。我と非我とを統一した「一層高次の我」を無意識に意識しているのです。私たち日本人は「我」というものを「我即非我」と認識する立場に立つ「実在」であると、「慣習法」に於いて認識しているのです。日本人の我は非我を包容した高次の我ということが出来ます。

 

対して、欧米の我はあくまで「我VS非我」で、我は非我に対立する処にあります。

 

以上のような日本と欧米との「我のあり方」の相違は、「自由」「平等」「人権」といった概念の相違となって現れます。

 

先ず、日本の「自由」という概念の意義は、日本人の我が「高次の我」であるところから非我との対立はなく((25)にて詳述)、「自主・独立」ということになります。松は松、竹は竹、梅は梅で、周りをキョロキョロすることなく、「自己実現」していくことが自由ということになります。一方、欧米の自由は「非我からの自由」(free from 〜)ということで、奴隷からの自由、宗教(キリスト教)からの自由、国家からの自由、国王・領主からの自由等、何らかの「権力からの自由」を意味しています。欧米の言論の自由表現の自由)とは神を殺すことによって得た「神からの自由」なので、シャーリー・エブドのようにイスラム教の神を冒涜しても一向にかまわないということになります。

 

次に、日本の「平等」とは、「平等即差別・差別即平等」ということで、松は松、竹は竹、梅は梅で、それぞれが個性を生きて「自己実現」していく、差別ある松と竹と梅とが、「それぞれの個性を生きることが自己実現という平等」「それぞれの差別を生きることが自己実現という平等」ということになります。一方、欧米の平等は単なる「悪平等」ということになります。例えば、マルクスが理想とした平等は、窮極的には共同体に於ける個人の消滅を意味しています。社会的・経済的不平等が所有物の不平等に由来するために、私有財産があってはならないとしたのです。しかし、私有財産という「物」は自己実現の手段であって目的ではない筈です。私たちは本来、十分に個性的な存在です。最近のDNA研究によれば、同じDNA型の別人が現れる確率は4兆7000億人に1人ということになっています。下記は釈尊が直弟子・阿難(アーナンダ)に残した遺言ですが、仏教がいかに徹底した「自己実現」の宗教であったかを如実に物語っています。

 

「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし法を拠り所として、他を拠り所とせずにあれ、斯くして、私は自己に帰依することをなしとげた。」 『大パリニッパーナ教』

 

アメリカの心理学者・アブラハム・マズローの『欲求段階説』によれば、私たちの欲求には、生理的欲求、安全の欲求 、社会的欲求、承認の欲求、自己実現の欲求、自己超越の欲求等があり、これらの欲求は生理的欲求から始まって、これが満たされると順次上位の欲求に移って行き、最後に自己超越の欲求が出てくるということになっていますが、実は、自己実現欲求は既に生理的欲求に於いて芽生えていて、これら六種の欲求のすべては自己実現の欲求と見ることができます。例えば、最下位の生理的欲求の段階でも、親が自らを犠牲にして最後の食を子に与えるというような自己実現もあり得ます。時には窮極の自己実現として、自らの死を意味することもあります。

 

次いで、「人権」すなわち人間としての「権利」という概念は、江戸時代までの日本には存在しませんでした。非我を包容する日本の自我に、非我と対立し「権力という力の行使による利益」を得ようとする概念そのものが希薄だったのです。欧米の「人権」はトマス・ホッブス等の「自然権」に由来します。自然権は放置すると最悪の場合「万人の万人に対する闘争」になりかねない「無制約の権利」となります。従ってこれを避ける為に「社会契約」が必要となり、所謂「憲法」が要請されることになりました。憲法は「時の権力」と「時の国民」の「双方」を「法の支配」の下に置いて権力構造を明らかにしたものですが、肝心要の憲法の「法源」が「自然法」かそれとも「慣習法」かという根本問題については曖昧なままです。英米は「慣習法」に基づいており、歴史ある日本の憲法も当然「慣習法」に依拠すべきですが、果たして今の日本国憲法はどうなっているのでしょうか。「慣習法」は一種の「自然法の自己限定」と見ることが出来ます。

 

現行の日本国憲法に、日本人の「人権」、日本人の「自由」、日本人の「平等」が反映されているのでしょうか。(つづく)