悟りの証明

仏教の一隻眼

悟りの証明(23)

私たちは「三昧」という意識の状態から離れることは出来ません。私たちは、実のところ、終日、三昧を生きています。三昧には座禅のように数十分の純粋で深いものから一瞬のものまで、意識の深浅があり、時間的な長短があります。

 

「三昧」には必ず「人格移入」が伴います。「感情移入」は意識の対象に対して感情を移入しますが、「人格移入」は全自己(人格=知情意=全機現)を移入します。私たちが何事かに無我夢中になっている時、私たちの意識は全面的に意識の対象に移入し、没入します。そして、そこに現前するものは意識の対象だけになります。ラグビー観戦で「人格移入」する時、そこに現れるものはラグビーのシーンだけです。そして、そこには興奮という感情があり、選手の一挙手一投足に合わせて、思わず自分の体を動かす「無差の作」という行為があり、試合の状況を「無分別において分別」するハタラキすなわち「仏性」=「般若」があります。

 

私たちがラグビーを観戦している時、三昧(無我夢中の状態)は二次的意識(我に帰った状態=普段の意識)と交互に現れ、その時間は1分〜10分程度と比較的長いものですが、私たちは一瞬のうちにも三昧を体験します。例えば、何か後ろの方で音が聞こえたとします。その瞬間、先ず「是は何」と意識します、何とは二次的意識が未だ発動していない意識の状態ですが、何は既にその音を「無分別において分別」しています。この「無分別の分別」があるからこそ、私たちが生来築いてきた意識体系と照合して「チャイムの音だ」と判断することが出来ます。しかし、もしこの音が、一度も聞いたこのない音だとしたら、「何」という意識の状態に留まったままになりますが、この何の状態こそ動的・具体的・全体である実在としての音を認識しているのです。この事実を、禅では、「答えは何にあり」すなわち「答えは問いにあり」といいます。因に、仏教の「観音菩薩」とは音を通じて衆生を悟りに導く使者ということになっています。

 

道元禅師は『正法眼蔵』・「仏性」において、次のように表現しています。

「是何姓は、何は是なり、是を何しきたれり、これ姓なり。何ならしむるは是のゆえなり、是ならしむるは何の能なり。」

(これ何と認識するハタラキ=仏性というのは、何を是として認識することである、是を何として認識すること、それが仏性である。何を何ならしめるものは是という認識があるからであり、是を是として認識できるのは何と認識する能力=仏性があるからである。)

 

幼児が1人で玩具と遊んでいる時、玩具と会話していることに気づきます。これは玩具を「人格化」して遊びの世界に没入している「三昧」の状態です。幼児は未だ知が十分に発達していない為に、情意が勝っていて、物事を「人格化」して見ているのです。幼児は、知が発達した大人よりも、余程豊かな世界で生きているということになります。

 

また、私たちがペットを飼っていると、何時しか、ペットを人格化して家族の一員にしていることに気づく筈です。ペットを人格化することで、より豊かな生活を送っていることになります。

 

「人格移入」とは「愛」に他なりません。それは自らのすべてを懸けて対象(相手)に一致しようとする努力に他なりません。(つづく)