悟りの証明

仏教の一隻眼

悟りの証明(22)

私たちが、一般に、現実の世界と思い込んでいる世界は、既に知(思惟)によって構成された静的・抽象的・部分的世界、物の世界、「存在・ザイン」の世界です。私たちが現実と思い込んでいる世界は、主観の裏付けのない抽象的な客観が浮遊し充満した、「知のファシズム」すなわち「知が情意を支配する世界」ということが出来ます。真の現実は人格(知情意)の対象界として現成する世界です。

 

三島由紀夫は『文化防衛論』・「日本文化の三特質」に次のように述べています。

丹羽文雄氏の『海戦』を批判して、海戦の最中にこれを記録するためにメモを取り続けるよりも、むしろ弾丸運びを手伝ったほうが真の文学者のとるべき態度だといった蓮田善明氏の一見矯激な考えには、深く再考すべきものがある。」

 

この一文は、真の現実・事実というものが如何なるものであるかということを明確に示唆しています。メモをとるという立場は「傍観」の立場であり、「弾丸運びを手伝う」という立場は「自観」すなわち「当事者」になって観る立場です。真の現実・事実は、当事者の三昧という体験において、はじめて把握される「動的・具体的・全体」であり、これこそが真の「実在」といえるものです。

 

先頃、IS(イスラミック・ステイト)によって殺害された後藤氏や湯川氏に対し、「日本人として自決すべきだった」という投稿がありましたが、これほど軽率で無慈悲なコメントはありません。両氏はインターネットで晒される前に自決していたかもしれません、自決をしようにも拘束されていて出来なかったかもしれません、薬物を投与されていて正常な意識がなかったのかもしれません。何れにしても、事実は「当事者」しか知り得ない事なのです、時には当事者ですら知らない事もあるのです(気が動転している場合等)。

 

また、刑事事件で、なぜ容疑者の自白が必要なのでしょうか。事実は本人しか知り得ない「当事者」の「出来事」だからです。真の実在の世界、現実の世界には「物」というものはなく、あるのは「出来事」だけなのです。

 

現実・事実とは一次的意識の三昧という体験に於いて、意識作用の内容として現れ来る主客未分の意識現象です。(つづく)