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悟りの証明

仏教の一隻眼

悟りの証明(20)

「この世」の一般的な道徳と仏教の倫理とは根本的に相違しています。

 

親鸞の「悪人正機説」によれば、「善人なおもて往生をとぐ,いはんや悪人をや」ということになっています。「善人さえも往生出来るのだから、悪人が往生出来ない筈はない」とは逆説にも解されますが、これは逆説ではありません。

 

善人は善行を積んでいるという自負があり、そのことで自らを肯定し、かえって「我」に執着します。一方、悪人は自らが犯した罪に苛まれ、それでも生きる為には「我を否定」する以外に残された道はありません。従って、悪人の方が「無我」の浄土へ渡る(浄土往生の)契機が得られる、と親鸞は主張しているのです。

 

仏教の倫理は、「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」ということに尽きています。「諸々の悪をなさず、諸々の善を行いなさい、自らその行いを浄めなさい、これが諸仏の教えです」とは、実に当たり前のことで、何ら「教え」にはなってないようですが、その実、これは仏教らしい意味深長な表現なのです。三昧に於いては、意識内容(≠意識対象)によって無我のハタラキ(作用)がハタラキたらしめられ、このハタラカしめられた無我のハタラキによって意識内容をあらしめるという回互が現成していますが、この回互活動の最中には、全く、ハタラキの恣意性などというものはありません(ハタラキは鏡のよう意識内容を映すだけです)。「諸悪莫作」とは「諸悪は<恣意的>に作ってはならない」という意味で、「無作」でなければならないといっているのです。「諸悪はなすなかれ」という理性的判断を述べているのではないのです(理論理性による命令は実践理性の定言的命令ではなく、仮言的命令に過ぎません)、つまり悪だからやってはいけないといっているのではなく、やってはいけないハタラキが悪であるといっているのです。「衆善奉行」とは諸善は無我の「無差の作」で実践しなさいといっているのです。

 

私たちが交通事故を起こした時(二次的意識が発生する以前の三昧の時)、私たちの意識にあるものは、我の恣意的な解釈を許さない、無我の認識としての厳然たる現実・事実です。私たちは、先ず、この現実をそのまま受け入れることを要求されます。次に、無我の「無作の作」によって被害者を救うという「衆善奉行」が要求されます。現実を現実として受け入れ、現実をあるべき現実たらしめることが要求されます。これらの要求に応える為には「我」があってはならないのです。三昧の世界(無我の世界)のこととして処理しなければならないのです。

 

道元禅師の「諸悪莫作」の巻によれば、

「正当恁麼時の正当恁麼人は、諸悪つくりぬべきところに住し、往来し、諸悪つくりぬべき縁に対し、諸悪つくる友にまじはるににたりといへども、諸悪さらにつくられざるなり。莫作の力量見成するゆえに、諸悪みづから諸悪と道著せず。諸悪にさだまれる調度なきなり。一拈一放の道理あり。正当恁麼時、すなはち悪の人をおかさざる道理しられ、人の悪をやぶらざる道理あきらめらる。」

 

(三昧時の当人は、諸悪をつくることが出来ないところに住し、行き来し、諸悪をつくれない条件の下にあり、諸悪をつくる友に交わるようなことがあっても、決して諸悪はつくられることはない。莫作の力が現れる故に、諸悪が諸悪にならないのである。諸悪に一定の道具立てというものはない。自由自在である。三昧の時、悪が人を犯すことのない道理が分かり、人が悪を破らない道理が明らかになる。)

 

「仏真法身、猶若虚空、応物現形、如水中月」なり。応物の莫作なるゆえに、現形の莫作あり。猶若虚空、左拍右拍なり。如水中月、被水月礙なり。これらの莫作、さらにうたがふべからざる現成なり。」

 

(仏のまことの法身(絶対的真理)は、なお虚空のごとく、物に応じて形を現じること、水中の月のごとし。物に応じての莫作であるから、形を現す莫作がある。虚空のように無礙自在である。水中の月のように、水と月とは互いに制約を受ける(回互する)。これらの莫作は全く疑うことが出来ない現実である。)

 

「莫作」とは「無我のハタラキ」ということです。私たちが三昧の状態にある時、例えば、サッカー観戦で無我夢中の時、音楽鑑賞で無我夢中の時、そこにあるものはサッカーのシーンだけであり、音楽だけです。「無我のハタラキ」は鏡のように意識の内容(サッカーのシーンや音楽)を、「そのまま忠実に」映すだけです、そこには何ら「作」はないのです、「莫作」です、「無作」です。

 

三昧の世界に於いて、現実を「無我」の「莫作」「無作」で受け入れ、現実を「無我」の「無作の作」「莫作の作」で現実たらしめる回互の世界が現成します。そこには私たちの普段の意識である「二次的意識」「相対的意識」「我と世界が対立する世界」を超越した無我の「一次的意識」の「ハタラキだけの世界」があります。私たちに二次的意識の「我」がある以上「保身」を完全に払拭することは出来ません。仏教に於ける倫理と、一般の道徳との相違はまさにここにあります。(つづく)