悟りの証明

仏教の一隻眼

悟りの証明(19)

上述のように、仏教(悟り)を明らかにする為には、何よりも「三昧」を明確にしなければなりません。その為には、仏道修行の最終段階である「定」と「慧」を明らかにしなければなりません。

 

先にも述べたように、「定」とは心の最も安定した統一状態であり、思惟(判断の連続)、連想、想像、といった二次的判断作用(散乱心)を停止した状態です。二次的判断とは先にも述べたように、直覚という一次的判断が働いた後に、これを反省することによって継起する判断です。「定」の世界では、意識の内容がなく、従って意識の対象もない、「絶対無」の世界ですが、意識が全くない訳ではなく、(覚者の認識に於いては)「ハタラキ」すなわち「慧」はハタライています。定と慧の関係は「体用」の関係ということが出来ます。次の問答は体用の関係を具体的に示したものです。

 

師匠と弟子が茶摘みをしていました。

師匠「互いに茶摘みをしているが、私はお前の声は聞こえるが、姿は見えない」

(弟子はこれを聞いて、茶の枝を動かしました。)

師匠「お前はただその用を得ているが、その体を得ていない」

弟子「そういう師匠はどうなのですか」

(師匠は何も言わず、しばらくじっとしていました。)

弟子「師匠は体を得ていますが、その用を得ていません」

師匠「何だか分かったようなことを云うやつだ」

(師匠はこの会話に至極満足したということです。)

 

次の問答も体と用についての問答であり、「座禅の奥義」ともいえるものです。

 

(薬山大師が座禅していると)

弟子「兀兀地思量什麼」(座禅していて何を考えているのですか)

薬山「思量不思量底」(無分別の処を分別している)

弟子「不思量底如何思量」(無分別の処をいかに分別するのですか)

薬山「非思量」(無分別の分別)

 

弟子の問いは、その実、既に答えになっています、「答えは問いにあり」ということです。什麼とは「何」ということですが、「何」とは無分別の状態です。「何を考える」ということは「無分別を分別」するということです。薬山の「思量不思量底」は、「無分別を分別するのだ」とそのまま答えているのです。ここで問答は既にここで終わっているのですが、それでも分からない弟子に対して、繰り返し、「非思量」すなわち「無分別の分別」なのだと説いているのです。

 

この問答では、不思量=無分別が「体」であり、不思量の思量すなわち非思量が「用」と解釈することが出来ます。

 

私たち判断を下す時、必ず、二重の判断をしています。一次的判断として「無分別の分別」があり、二次的判断として「分別」があります。ここで非常に重要なことは、一次的判断は「動的・具体的・全体」の判断、すなわち「実在」そのものを判断しますが、二次的判断は実在を「静的・抽象的・部分」として判断するということです。

 

今、読者がこれを読んでいる最中、「ゴ〜ン」という音を聞いたとします。読者はこの「ゴ〜ン」を聞いて、「鐘の音だ」と判断したとします。この単純な事実でわかることは、「ゴ〜ン」という音自体を判断(一次的判断)しているからこそ、「鐘の音だ」という二次的判断が成り立つということです。二次的判断とは私たちが生来構築してきた知識体系と照合して下す判断なのです。「鳴らぬ前の鐘の音を聞く時」「隻手の音声を聞く時」、そこに一次的判断が成立し、「ありのままの」真実在すなわち「動的・具体的・全体」が現成しているのです。

 

ちなみに、西田幾多郎は一次的判断のことを「反省的判断」といい、二次的判断のことを「限定的判断」といっています。限定的判断とは分別対象に対する分別作用(判断)ですが、反省的判断とは分別作用を対象とした分別作用(判断)ということで、これを西田は「作用の作用」の判断といっています。(つづく)