悟りの証明

残日録

悟りの証明(16)

      覚者の立場

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無我・・・・・ハタラキ

無我・・・・・無我即我・・・・・我

一・・・・・・一即多・・・・・・多

梵・・・・・・梵我一如・・・・・我

 

仏教を理解するためのポイント、悟りを得るための要諦は「意識の現場」「純粋経験」「現在意識」「純粋意識現象」すなわち「三昧」という私たちの意識の状態を冷徹に観察し、分析することにあります。

 

私たちが何かに夢中になっている時、例えば、サッカーを観戦している時、あるいはコンサートで音楽を聴いている時、所謂「無我夢中」です。私たちが「無我夢中」の時は文字通り「無我」です、無我でありながらサッカーのプレイや音楽が「意識の内容」として現前している状態です、この状態が「主客未分」です、この状態が所謂「三昧」です。この「三昧」が破れた時、「我に戻る」ということになり、この戻った我(普段の我)が今まで見ていたサッカーのプレイや今まで聞いていた音楽を「反省」(一瞬の無意識)する時、「意識の内容」が「意識の対象」となり、主客が分離します。

 

「三昧」において、我を客観的に見れば、我は確かに存在していますが、我を主観的に見れば(当事者になって見れば)、「無我夢中」で無我ということになります、我は存在していないことになります。つまり三昧という意識の状態に於いては「無我即我・我即無我」ということになります。さらに、この「三昧」の状態をもう一歩踏み込んで考えてみると、無我なので、我はないことになり、我がないにもかかわらず、スポーツ・シーンをあらしめたり音楽をあらしめている「ハタラキ」はあるということになります。要するに、三昧に於いてあるものは「ハタラキ」だけということになります。私たちは「三昧」に於いて一切を無に帰し、「ハタラキに還元」するということになります。この実感すなわち体験を仏教では「解脱」「脱落」「透脱」といいます。

 

さらに、この「無我」すなわち「ハタラキ」は誰にとっても等しくハタラキなので、人類の「普遍的なハタラキ」「一般的なハタラキ」「一なるハタラキ」ということになります。無我=ハタラキは私たち個人の無我でありながら、個人を超越して人類に遍在する無我ということになります。そこで、無我即我とは「一即多・多即一」ということになります。「一」とは普遍的な我であり、「多」とは個多すなわち私たち個々人の我です。

 

仏教では、この「人類普遍のハタラキ」が更に拡大されて、「宇宙のハタラキ」ということになり、宇宙の原理は「ハタラキ」ということになります。ここに来て、宇宙と私たち人間は「ハタラキを共有する存在」となり、所謂「梵我一如」ということになります。

 

この「ハタラキ」は、流動・動き・力・活力・活動・生命力・精神力・エネルギー等々、様々な概念で展開されることになります。ちなみに、西田幾多郎は「私たちの人生とは宇宙精神の実験である」といっています。「諸行無常」とはこのような「流動の世界」を意味しています。しかし、気を付けなければならないことは、これらの概念は知識の対象であって、ハタラキの符丁でしかないということです。従って、「ハタラキはハタラキではない、それが真のハタラキである」ということになります。(つづく)