悟りの証明

残日録

悟りの証明(15)

以下、悟りの証明(14)のチャートの各項目について詳述します。

 

       覚者の立場

         ▼

無我・・・・・・無我即我・・・・・・我

                      即非

      絶対矛盾的自己同一

 

「無我」と「我」との関係は「無我即我」すなわち「無我にして我」ということになり、「即非の論理」(鈴木大拙)が成立します。無我と我との関係は「矛盾」すなわち「非」でありながら同一すなわち「即」ということになります。また、無我と我は絶対に矛盾しながら自己同一ということで「絶対矛盾的自己同一」(西田幾多郎)ということになります。次の問答は「無我」と「我」との関係をいい得て妙です。

 

師匠「汝諸人尽承吾力」(お前たちは皆、私の力で働いているのだ)

弟子「既承師力、何用普請」(師匠の力ならば、どうして私たちが働くのか)

師匠「不普請争得柴帰」(お前たちが働かなかったら、誰が柴を運ぶのだ)

 

師匠が無我で弟子たちが我ということで、無我と我との関係が如実に表現されています。もう一つ例を挙げます。

 

雲厳曇晟と道吾の会話

道吾「煎与阿誰」(誰に茶を煎れるのかい)

雲厳「有一人要」(一人欲しがっている者がいる)

道吾「何不教伊自煎」(自分で煎れさせたらいいのに)

雲厳「幸有某甲在」(幸いに私がここにいる)

 

「一人」が無我で「私」が我ということになります。

 

無我と我とは互いに互いをあらしめ、あらしめられるという関係、すなわち「相互依存」の関係にあります。私たちは、生まれたいと意志をもって生まれてきたのではありません、生まれさせられたのです、無我を認めざるを得ません。しかし一方、我が存在し、我が生きている事実は疑いようのないことです。私たちが生きるということは無我の証明であり、かつ、我の証明なのです。覚者は「無我でありながら我」・「我でありながら無我」すなわち「無我即我・我即無我」、略して「無我即我」の立場に立っています。

 

ちなみに、現在の日本、「この世」「此岸」「穢土」には、安保法制議論や沖縄基地問題があります。これらの問題の底流にあるものは「国民国家主義VS市民社会主義」という構図です。安倍政権(自民)は国民国家主義、共産・社民・民主および殆どのメディアや知識人・言論人は市民社会主義の立場に立っています(本人たちにそのような認識があるかどうかはともかくとして)。国民国家主義は民族主義全体主義に陥る危険性があり、市民社会主義は「脱国家」という「非現実の愚」に陥る傾向があります。市民社会を支えるものは「人権(自然権)」と「表現の自由言論の自由を含む)」と「平等」といった輸入思想です。これらの輸入思想を支えるものは「我」であり、「無我」というものは全くありません。欧米の歴史は神を殺すことによって人間の自由を得てきたのです。宗教がないところには「無我」はあり得ないのです。日本においても「無我」は風前の灯火です。個人の我や地域の我が相殺する社会は決して住み良い社会とはいえません。相生の鍵は「無我」にあります。(つづく)