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悟りの証明

仏教の一隻眼

悟りの証明(12)

「無意識の意識」「無知の知」「無作の作」を把握すること、体験として知ること、体得することが悟りです。決して対象化できない主観を直(直接)に知ることが悟りです。

 

以上のことから導きだされる重要なポイントは、私たちには「二つの知の作用」「二つの認識作用」があるということです。一つは相対知=分別知であり、もう一つは絶対知=直覚=自知=自己同一知=般若ということになります。そして更に重要なことは、絶対知が相対知に必ず「先行」するということです。相対知は絶対知を「反省」することによって生起するからです。

 

絶対知については次の三つを峻別することが出来ます。

 

知覚

「感覚の自知」ということになります。冷たい暖かいという感覚が感覚自身を知るというところに「知覚」が成り立ちます。「知覚」は知る感覚と知られる感覚が自己同一である所に成り立つ知です。

 

「運動の骨」

「筋覚の自知」ということです。筋覚が筋覚自身を自知することが「骨」と言われるものです。「骨」は知る筋覚と知られる筋覚が自己同一のところに成り立つ知です。

 

「般若」

「思惟の自知」ということです。思惟は感覚をまとめ上げる所謂「統覚」ですから、思惟が思惟自身を自知することが般若です。知覚や骨よりも上位の自知=般若ということになります。

 

私たちは、暑い時に、「暑い!」と言います。この事実を深堀してみると、二重に判断していることがわかります。暑いと感じるときには既に暑さを感覚で判断(知覚)しているのです。しかしそれに加えて、「暑いと言う」ときには「思惟の判断」が加わっています。「暑い!暑い!」と言う(思惟する)ことで知覚している暑さを倍増させているのです。「口は災いの元」なのです。「言論の自由」もそこそこに、ということです。

 

弟子「これから猛暑が来ますが、どうしたら避けることが出来ますか」

師匠「どうして無寒暑の所に行かないのか」

 

「無寒暑の所」とは「無分別の所」ということになります。この「無分別」を分別すること、すなわち「無分別の分別」が悟りということになります。(つづく)