悟りの証明

残日録

悟りの証明(11)

公案は多様ですが、数種に分類することが出来ます。上記とは一味違った公案を紹介します。

 

師匠と弟子が一緒に散歩をしていました。空を見上げれば、折しも野鴨子が飛んでいました。

師匠「あれは何だ」

弟子「野鴨子です」

師匠「何処に飛んで行くのか」

弟子「もう飛んで行ってしまいました」

(師は、間髪を入れず、弟の鼻を捻り上げて)

師匠「まだここにいるではないか」

弟子は痛みに喘ぎながらハット気づきました、悟ったのです。

 

弟子の主観(意識作用・ハタラキ)は「鳥が飛び去った」という客観の世界をあらしめています、しかし、突然、鼻を捻り上がられて、主観の世界に連れ戻され、意識作用・ハタラキに気がつかされます。客観を在らしめているのは主観であるということが直覚=般若=自己同一知でわかります。客観と主観とは主客未分であることがわかります。「主観に裏付けられた客観」、「主客が一枚になっている状態」、まさに、これこそ「主客未分の状態」、すなわち「いま・ここ」という「現在進行」の意識作用そのもの、ハタラキそのものを知ることになります。過去の意識作用は既に作用を失っています、未来の意識作用に作用がある筈がありません、ハタライテいる意識作用は「いま・ここ」にしかありません。

 

弟子「仏とは?」

師匠「教えてやろう、もっとこちらに寄れ」

(弟が師に近づくと、いきなり蹴飛ばされました)

弟は起き上がろうとしたその瞬間、悟りました。

 

弟子が教えてもらおうと「近づく時」、弟子は「近づく」というハタラキ・行為・主観を意識していません、「思わず」近づいています。つまり、「無意識」に近づくという行為・ハタラキ・主観を実行しているのです。弟子の「近づく」という行為は「無意識の意識」なのです。弟子はこの「無意識の意識」確かに掴んだのです。対象化できない主観を直に覚したのです、直覚したのです、悟ったのです。

 

これは上と全く同じ問答です。

弟子「人は貴方の説教に感服しているが、私は聞きたくない」

師匠「私は耳が遠いので、もう少し前へ来て下さい」

(弟子は師匠に近づきます。)

師匠「私の云うことをよく聞いているではないか」

 

近づくという行為は「無意識の意識」であり、「無分別の分別」であり、「無作の作」です。(つづく)