悟りの証明

仏教の一隻眼

悟りの証明(10)

仏とは?悟りとは?仏性とは?と問われた覚者たちは、次のように答えています。

 「庭前柏樹子」

 「乾屎厥」

 「牆壁瓦礫

 「麻三斤」

 「東山水上行」

弟子たちはこのように説かれた意味・内容を必死に解こうとします。この時、覚者たちは内心なにを思っているのでしょうか。

 

「解こうとしても意味がない(解けない)と明言しているではないか、この私が、意味のあることを云って説こうとしているとでも思っているのか、釈尊の「四十九年一字不説」を忘れたのか。どうしてお前たちの注意がそちらの方に向かうのか、説いている私の方に注意を向けないのか、「向かえば背く」を忘れたのか、客観界を深堀して、肝心の主観界をなおざりにしてどうする。私は、こうして説いていてハタラキそのものを体現し、直指しているではないか。説かれたものは客観だ、説いているこの私は主観だ。説かれたものは意識の対象だ、説いているこの私は意識の作用だ、ハタラキだ。このハタラキを直覚した時、お前たちは仏なのに・・・。」

 

実のところ、これらの「公案」の真の目的は、弟子たちをして徹底的に考えさせることにあります。弟子たちをして「相対知」を駆使させ、徹底的に考えさせ、どうにもならないギブアップにまで追い込むのです。つまり「百尺竿頭」に追いつめるのです。こうすることによって、「相対知」から「絶対知」(直覚、般若)への「進一歩」すなわち「知の飛躍」のための準備を整えさせるのです。これらの公案は覚者たちが仕掛けた「罠」なのです。

 

ちなみに、他のサイトを検索してみてください。これらの公案をめぐって、我こそはと、多様な見解が述べられています。「罠」にかかって、もがいている様を窺うことが出来ます。(つづく)