悟りの証明

残日録

悟りの証明(8)

正解は「是同」すなわち三般(三種)は同一です。何故かを詳しく説明します。

 

これら二つの偈は何れも「色→空→色即空」ということを説いています。私たちの「三つの認識の立場」について述べているのです。そして、これら三つの立場は三段目の立場に集約されるということを示唆しているのです。

 

第一段(色の世界・客観界・思惟の対象界)

主観すなわち意識作用は一般的に知・情・意に分類されます。知と情意との基本的な相違は、情意が主客未分であるのに対して「知は主客分離」であるという点です。この「知の主客分離」ということこそ人間と他の動物との抜本的な相違です。主客分離は「反省」によって可能なので、人間は「反省する動物」ということが出来ます。思惟は思惟の「内容」を反省し、外化し、思惟の「対象」にしているのです。これが私たちの「相対知」「分別知」といわれるものです。私たちの知は考えられるもの(対象)がないことには考えられないのです。私たちの眼前に広がるこの世界(此岸)は思惟の対象として私たちが描いた世界です、いわば私たちの「作品」です。しかし、覚者以外のすべての人々はこの作品(浮き世)の中に住んでいるという自覚がありません。生物学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュルの「環境世界」説によれば、動物は自分の周りの環境の中から自分にとって「意味のあるもの」だけを取捨し、それを知覚し、それに働きかけて生きることによって、自分を取り巻く世界を構築するということになっています。つまり、蟻には蟻の意味の世界があり、モグラにはモグラの意味の世界があり、人間には「人間の意味の世界」があるということになります。しかし、私たちは、私たちの意識とは無関係に、客観的な世界があるという抜本的な思い込みがあります、私が死んでもこの世界は残るということは自明のことと信じています。西洋哲学・思想に於いては常に「客観界」「実体の世界=真なるものの世界」「物自体の世界」があるのだという思い込みを前提としています。これに反し、仏教の立場は「現実的」で、私たちがこの世、この世界といっているものは「意味の世界」であって、それ以外の世界はあったとしても知りようのない世界なので問題にしません。私たちが死んだら、それと共に私たちが描いた作品である「意味の世界」すなわち「この世」は消滅します。所謂客観界などというものは何処にも存在しません。

 

第二段(空の世界・主観界・絶対無の世界)

主観は対象化できません。主観を対象化したら、それは主観ではなく客観です。

従って、主観があるということも出来ません。主観が無かったら客観もありません、これが有無の無ではない高次元の「絶対無」です。従って「絶対無」は「相対知の立場」では証明することが出来ません。どうしても次の第三段の「色即空の立場」に立たなければなりません。色即空の立場を獲得するために一般的に要請されるのが所謂「座禅」です、しかし座禅は手段ですから必ず必要という訳ではありません。「座禅」では思惟の休止に努めます。そして思惟を休止しても、なおハタラクものがあるということを直覚します。この「ハタラクものの直覚」が重要なのです。何故ならば、このハタラクものが私たちの本性であり、仏性であり、この本性=仏性を直覚・直観することが、性を見ること、すなわ「見性」=悟りなのです。覚者としての惟信禅師が「山を見ればこれ山にあらず、水を見ればこれ水にあらず」というのは、絶対無の立場に立つた時の表現なのです。

 

第三段(色即空の世界・主客未分界・知情意の作用即対象界)

主観と客観が一枚の紙の裏と表のように、切り離すことができないものとして、空が色となり、色が空となる「動的・具体的・全体の世界」です、これこそ「真の実在」なのです。紙の表と裏を同時に見ることは出来ません。裏と表を見るには見る目が動かなければなりません、従って「即」「如」なのです。「即」「如」は「=」ではありません。色が空に「転」じ空が色に「転」じるという動きが含まれた仏教独特の概念です。色に於いてある物は三次元に於ける物であり、空に於いてあるものは四次元に於けるハタラキなのです。この両者は互いに異次元なのです。異次元のものを「=」でつなぐことは出来ません。しかし、これら異次元のものを同次元に置いて思惟するというところに問題が起こってきます。例えばデカルトは、精神の主要な属性は思惟であり、物体の主要な属性は延長であると考え、時間に於ける精神と空間に於ける物体(自然)を峻別して、二つの原理を立て、精神と自然という相対立する構図を描きました。そのために、私たちは精神と身体に分裂してしまいました。そしてこの二元論は、西洋においては未だに統一され克服されているとはいえません。仏教ではこの二項対立を実に単純に乗り越えます。仏教には「刹那」という概念があります。刹那とは一般に時間的概念ですが、仏教では空間的な概念でもあります。刹那とはほとんど静止した時間と、位置だけあってほとんど広がりのない空間を意味し、これが「いま・ここ」であると考えます。そしてこの「いま・ここ」は外から見ればその存在すら疑わしい世界に過ぎませんが、内から見れば(その場に立てば)絶対の現在、絶対の場所として、永遠の時間と無限の空間を意味しています。私たちの命(ハタラキ)の在処は、実に、この時・この場にしかないということになります。私たちは「いまの連続として永遠・ここの連続として無限」に於いて生きているということになります。これを仏教では、空間的な表現としては「一粒の芥子種の中に須弥山を収める」といいます。(つづく)