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悟りの証明

仏教の一隻眼

悟りの証明(7)

道元の文は非常に行間が広く難解なので、大胆に意訳しないと意味が通じません。

 

「諸法の仏法なる時節、すなわち迷悟あり修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。」

ものごとが実在=動的・具体的・全体である時、(それらを客観的に見れば)それらは「静的・抽象的・部分」(物象化されたものごと)として有る。

 

「万法ともに我にあらざる時節、まどひなく、さとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。」

ものごとが我によって意識されない時、一切は消滅し「絶対無」・「空」となる。

 

「仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、消滅有り、迷悟有り、生仏あり。」

仏道は、本来、存在(静的・抽象的・部分)の有無を問うものではないので、ものごとは「主客未分の実在(動的・具体的・全体)」として有る。

 

「しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。」

このようであると「思惟による論理的な教」としては説けるものの、行(実践・現在進行の体験)の立場としては、このように「直指」するのみである。

 

次の惟信禅師の偈は上記の道元禅師の偈とその趣旨において全く同じです。ひょっとしたら道元はこの偈を下敷きにしたのかもしれません。

 

「老僧三十年前、未参禅時、見山是山、見水是水。

及至後来親見知識有箇入処、見山不是山、見水不是水。

而今得箇休曷処、依前見山祇是、見水祇是水。

大衆、這三般見解、是同是別。」 

老僧三十年前、未だ禅に接しなかった時、山を見ればこれ山、水を見ればこれ水。

その後、親しく知識を得て、箇の入処あるに至に及んで、山を見ればこれ山にあらず、水を見ればこれ水にあらず。

近頃、箇の休曷の処を得て(これが落ち着く処に落ちついて)、嘗てのように、山を見ればただこれ山、水を見ればただこれ水、ということになった。

大衆(諸君)、これら三般(三種)の見解(認識)は、これ同か、これ別か?

 

正解は次回 

 

(つづく)