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悟りの証明

仏教の一隻眼

悟りの証明(6)

仏教では、しばしば「向かえば背く」といいます。これは悟りを求める人にとって非常に重要なことです。

 

親鸞は九歳で出家し、二十九歳で、長年の修行にもかかわらず悟りを得ることなく失意のうちに比叡山を下り、京都の「六角堂」に100日間籠ったと伝えられています。その後、親鸞は自らを「愚禿」(愚かな禿頭)と自称するようになります。この親鸞の愚禿には、親鸞の悟りの自覚と浄土門への転向の決意が伺われます。親鸞にとって、二十年間の比叡山における修行は、師匠の法話を聴き、各種の儀式に参列し、経典を読破し、思索を深めることだったに相違ありませんが、それは結局「客観」を学び、客観の世界を拡大し、客観界に浸ることで、主観を志向し主観を明らかにする悟りへの道(仏道)とは正反対だったのです、全くベクトルが逆だったのです。悟りを得て、そのことに気づいた親鸞は「向かえば背く」の真意が身にしみてわかった筈です。覚者となった親鸞が過去を振り返った時、「愚」としかいいようがない自分自身を嘲笑せざるを得なかったのです。しかしそれは単なる自虐ではなく、悟りの自覚という自尊を伴ったものでした。

 

悟りへの「認識の過程」は、「色→空→色即空」と進むことになります。「色」は「客観界」で、所謂この世・此岸・穢土です。「空」は「主観界」で「絶対無の世界」であり、既に「彼岸」「浄土」です。「色即空」は色と空が紙の表裏のように切り離すことの出来ない「主客未分の世界」で、先に述べたように、決して「色=空」という意味ではありません。色と空とは全く土俵が相違しているので相対関係にはありません。悟りへの認識過程は「客観→主観→主客未分」と進展します。このことは、次の道元禅師の主著『正法眼蔵』・現成公案の巻に見事に説かれています。