悟りの証明

残日録

悟りの証明(4)

渓声便是広長舌    (けいせいすなわちこれこうちょうぜつ)

山色無非清浄身 (さんしきしょうじょうしんにあらざらんや)

夜来八万四千偈 (やらいはちまんしせんのげ)

他日如何挙以人 (たじついかんかひとにこじせん) 

 

(意訳)

渓声(谷川の音)は饒舌である

山の景色は山の主観(山の働き・動き)そのものではないか

昨夜来、八万四千もの偈(仏の教え)を唱えている

後日、どのようにして(この私の感慨・主観を)他人に伝えることが出来るだろうか。

 

これは、北宋の覚者・詩人・政治家であった蘇東坡の韻文詩です。この詩は蘇東坡が渓声山色(深山)にあって、悟りを得た時の感慨を吐露したものです。一人で悟りを得たので「無師独悟」ということになります。

 

渓声山色の主観=渓声山色のハタラキ(動き)=「見なさい、聞きなさい、感じなさい」という働きかけに触発されて、蘇東坡の主観のハタラキ=「見る、聞く、感じる」が現成します。単に「見える、聞こえる、感じられる」ということでは受動的で、蘇東坡自身の能動的なハタラキとはいえません。ハタラキは能動的であって始めて真のハタラキです。蘇東坡は確かに「自らのハタラキ」を自覚したのです、主観を掴んだのです、「ハタラクことが自分である」と悟ったのです。蘇東坡からすれば蘇東坡自身は「自」で渓声山色は「他」ということになります。他は自を在らしめ・自は他を在らしめる、すなわち「他が自に転じ・自が他に転じる、つまり「回互」するところに真の「実在」が現成するということになります。仏教では、この「回互」のことを「即」とか「如」と表現します。「色即空」「一即他」「自他一如」といった使い方をします。先に述べたように、主観と客観はその置かれている土俵が違います、両者は同一の土俵(同一の空間)に置かれていないのです。従って場の移動が必要になってきます。裏に回り表に回るということが要求されます。従って、「即」とか「如」といった概念には時間・動きの次元が含まれている、4次元の用語なのです。即や如は「=」とか「VS」といった3次元の概念では把握できないのです。

 

禅者は「橋は流れて川は流れず」と主張します。これは客観の立場に立っている私たちすべてに対する挑戦であり、主観の立場もあるのだという示唆なのです。主観の立場に立たない以上、真の自己の把握は出来ないのです。私たちの「普通の知」は、対象なくしては成り立たない相対知・分別知です。しかし、私(自己)は相対化し、対象化し、客観として把握することは出来ないのです。

 

「裏を見せ表を見せて散る紅葉」 良寛

 

(つづく)