悟りの証明

残日録

悟りの証明(2)

そこで、仏教は主観を語る(説く)ことを使命としますが、しかし、主観は語るごとが出来ないというジレンマに陥ります。仏教(悟り)を伝え残すことの難しさはここにあります。

 

釈尊四十九年一字不説」

釈迦は悟りを得て入滅するまでの49年間、一字(一度)も説くことはなかったということです。説かれたもの、知られたもの、感じられたもの、すなわち私たちによって知られたもの(知識)は、すべて、意識作用(意識の働き)すなわち主観の「対象」です、客観です。主観(意識作用)を説くべき仏教が客観を説くなどということはあり得ないのです。

 

「不立文字 教外別伝 直指人心 見性成仏」

これは聖道門系の「禅宗」というものが何たるかを端的に表している至言です。禅宗では仏教(悟り)を伝えるのに、「不立文字」すなわちコトバ(言語)を使用しないで、直接に、人心=人の心の働き=「主観」を指し示し、見性すなわち成仏に導く、と主張しているのです。私たちは物事を考える時、コトバ(言語)を使用します。流動する観念を概念(コトバ)に固定することで考えること(思惟作用)を可能にしているのです。しかし、禅宗では思惟することそのものを否定しているのです。思惟(知)を否定したのではどうしようもないと思われますが、私たちにはもう一つの知である直観=直覚=般若というものがあります。この般若を自覚することが悟ることなのです。

 

教行信証

これは浄土門系の「浄土真宗」の開祖である親鸞の主著のタイトルです。「教」をもって教え、「行(実践=体験)」をもって指導し、「信(信心)」をもって悟らしめる(自覚させる)という意がこめられています。(つづく)