悟りの証明

残日録

悟りの証明(46)

「なぜ人を殺してはいけないの?」 この問いは、1997年8月15日、故筑紫哲也がキャスターを務めたテレビ番組『ニュース23』が企画・放映した「ぼくたちの戦争’97」という特集コーナーで、高校生たちが大人たちと討論する中、ある高校生がこの問いを投げかけ、…

悟りの証明(45)

倫理を求めた吉本は、結局、自らの思想にも宗教にもその窮極的な答えを得ることなく逝ってしまいました。吉本は思想による倫理の追求に限界を感じ、親鸞(宗教)にその望みを託しましたが、結局、親鸞を理解することなく世を去りました。しかし、この講演の…

悟りの証明(44)

主知主義者である吉本は倫理というものを全く理解していません。この講演のような愚かな知を拡散すること自体が倫理に反する悪であることを認識していないのです。<真の倫理は倫理を否定する>ということ、<「人知」によって倫理を語ることが悪である>と…

悟りの証明(43)

吉本隆明の183講演(要検索)の一つ『親鸞の造悪論』に対して、批判を続けます。 「だから、現在の状況では、やっぱり、理念が存在することも、それから、宗教が存在することも認めなければならない。それは、迷妄な部分をもっていても認めなければならない…

悟りの証明(42)

吉本隆明の183講演(要検索)の一つ『親鸞の造悪論』に対して、批判を続けます。 吉本がこの講演において披瀝している内容は、吉本の「知識の対象界」であって、吉本によって知られた世界、吉本によって描かれた世界、すなわち吉本の「客観界」「色の世界」…

悟りの証明(41)

吉本隆明の183講演(要検索)の一つ『親鸞の造悪論』に対して、批判を続けます。 「それから、宗教思想の迷妄な部分は、かならず、理念的になっています。ようするに、なにかイデオロギーになって出てきてしまいます。つまり、それが、現在における、現実の…

悟りの証明(40)

吉本隆明の183講演(要検索)の一つ『親鸞の造悪論』に対して、批判を続けます。 「信仰の問題を、浄土真宗っていうのは最も最初に、一種の善悪の問題、つまり、倫理の問題に、一等最初に置き換えた宗派なわけです。つまり、仏教の僧侶の出家の修行っていう…

悟りの証明(39)

「悟らずして仏教を語ることなかれ」に反して、仏教を語った吉本隆明の「愚の思想」を分析してみることも一興であり、仏教を深く知る上でも意義あることと思います。 吉本隆明の183講演(要検索)というものがあり、その中に『親鸞の造悪論』があります。 「…

悟りの証明(38)

私たちの「普段の意識」「二次的意識」「人間意識」「人為の意識」に対して、「三昧の意識」「一次的意識」「仏の意識」「自然の意識」が対立します。仏教の要諦は、三昧の立場に立ち、三昧においてハタライテイル「自然(じねん)の意識」「無意識の意識」…

悟りの証明(37)

公案に『風性常住無處不周』(風性は常住にして処として周らざる無なし) というのがあります。これは宝徹禅師と一僧との問答に由来します。 宝徹禅師が暑気払いに扇を使っていると、ある僧がやって来て、 一僧「仏教では『風性常住無處不周』といっています…

悟りの証明(36)

大燈国師(鎌倉時代の禅僧)にまつわる有名な小話があります。 ある役人がまっか瓜(国師の好物)を渡そうとして、国師に向かって「無手で受け取れ」と言ったのに対して、国師は「無手で渡せ」と応じたと言うことです。この話は両者共に「覚者」ではないと成…

悟りの証明(35)

「山の中にいて山を見る(知る)」とは三昧(一次的意識)において三昧を見る(知る)ということで、「山を離れて山を見る(知る)」とは二次的意識において二次的意識を見る(知る)ということになります。三島由紀夫の絶妙の表現「主体なき客観性」とは、客観界…

悟りの証明(34)

宇宙のハタラキ(力・エネルギー)は人間のハタラキ(生命力・精神力)として降臨(神人同性)するだけではなく、一切の物に降臨(神物同性)し、八百万の神々を現成させ、この宇宙・この世界を「ハタラキの世界」「生命の世界」に転じます。所謂自然は無意味な物…

悟りの証明(33)

「一即多」すなわち宇宙のハタラキ(一)は私たちのハタラキ(多)として降臨してきます。西田幾多郎はこれを「私たちの人生とは宇宙精神を実験することである」と実感を込めて述べています。この宇宙精神とは宇宙のハタラキを意味しています、ハタラカない精神…

悟りの証明(32)

宇宙のハタラキは人間のハタラキ、すなわち神のハタラキは人のハタラキとして「神人同性」というのが神道であり仏教です。嘗て、日本人であれば生きとし生けるものにはすべて神が宿ると無意識に意識するのが普通でしたが、欧米思想のコピペを専業とする知識人…

悟りの証明(31)

仏教の教説は悟りを得ずして理解することは出来ません。悟りは三昧・一次的意識において般若・直覚・直観によって自覚されるハタラキです。三昧は主客未分の意識状態で、意識の内容(未だ意識対象にはなっていない)のみが現前している状態で、意識作用が意…

悟りの証明(30)

悟りの証明(29)

我と無我、いずれが「本当の我」・「真我」でしょうか? 答えはいずれでもありません。上来述べてきたように、我とは「ハタラキ」のことです。誤解してはいけないのは、我がハタラキを持っていて、我がそのハタラキを使うのではありません、「ハタラキが我」な…

悟りの証明(28)

「悟る」ことを「見性」と言いますが、「見性」の「見」は、広義では「知る」ということですが、ここでは「直覚・直観・般若によって知る」という意味です。「性」は私たち人間の「本性」すなわち「仏性」を意味しています。従って、「見性」とは「私たち人間の本性で…

悟りの証明(27)

仏教ではこの宇宙の原理をハタラキ(動き、活動、力、エネルギー等)と見なし(「諸行無常」)、このハタラキはあらゆるものに遍在し、私たち人間においては意識のハタラキすなわち意識作用として顕現します。この事実は、私たちの普段の意識(二次的意識)…

悟りの証明(26)

「仏教」は窮極の自己実現である「悟り」を目的とする宗教哲学です。悟りは「経験を超えた特殊な体験」です。悟りは、理論理性の追求の果に、突破できないアポリアの状態に彷徨していて、「何ものか」を契機に「ふと」アポリアを突破する体験です。悟りは、…

悟りの証明(25)

我と非我は対立するものではありません。我は我、非我は非我でありながら、そこには対立はないのです。我と非我の関係は、我=自と置き換え、非我=他と置き換えてみると、「自即他・他即自」ということになります。「即」には「転じる」「回互する」という…

悟りの証明(24)

所謂リベラルという人種は、欧米に対する劣等感と憧憬を持ち、日本を学ぶことなく、欧米思想を未消化のまま輸入し、「コピペ思想」を吹聴する特殊な「主知主義者」です。朝日新聞は「日本を相対化する」等と傲慢な主張をしていますが、日本(江戸時代以前)…

悟りの証明(23)

私たちは「三昧」という意識の状態から離れることは出来ません。私たちは、実のところ、終日、三昧を生きています。三昧には座禅のように数十分の純粋で深いものから一瞬のものまで、意識の深浅があり、時間的な長短があります。 「三昧」には必ず「人格移入…

悟りの証明(22)

私たちが、一般に、現実の世界と思い込んでいる世界は、既に知(思惟)によって構成された静的・抽象的・部分的世界、物の世界、「存在・ザイン」の世界です。私たちが現実と思い込んでいる世界は、主観の裏付けのない抽象的な客観が浮遊し充満した、「知の…

悟りの証明(21)

カントは、道徳とは「汝〜すべし」という「定言命法」に従うことだといいましたが、一体、この「定言命法(絶対命令)」なるものが何処から出てくるのでしょうか、「彼方からの声」や「良心の声」といったところで、何の答えにもなっていません。 仏教におけ…

悟りの証明(20)

「この世」の一般的な道徳と仏教の倫理とは根本的に相違しています。 親鸞の「悪人正機説」によれば、「善人なおもて往生をとぐ,いはんや悪人をや」ということになっています。「善人さえも往生出来るのだから、悪人が往生出来ない筈はない」とは逆説にも解…

悟りの証明(19)

上述のように、仏教(悟り)を明らかにする為には、何よりも「三昧」を明確にしなければなりません。その為には、仏道修行の最終段階である「定」と「慧」を明らかにしなければなりません。 先にも述べたように、「定」とは心の最も安定した統一状態であり、…

悟りの証明(18)

覚者の立場 ▼ 梵・・・・・梵我一如・・・・・我 神・・・・・・仏・・・・・・・人 宇宙の原理である「ハタラキ」すなわち神が私たちの「ハタラキ」である「仏」と「神人同性」であるというのが「梵我一如」ということになります。この「ハタラキ」がどのよ…

悟りの証明(17)

仏教では、三昧のことを「定」あるいは「正定」ともいいます。仏道修行とは三学(戒・定・慧)、あるいは六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧=般若)を修することですが、修行の核心は定=正定=禅定と慧=智慧=般若にあり、定と慧は一等(定慧…