悟りの証明

残日録

悟りの証明(70)

仏教を深く知ることで欧米思想やリベラル思想の誤りや偏向が判然としてきます。例えば、リベラルのバイブル的な書『私の戦争論』で吉本隆明に次のように述べています。

 

「個人+個人+個人+・・・・といった個人の総和が公ということであってね。個人の集まりが公を作るのです。個人と公は対立関係でもないし、個人を超えて公があるということでもありません。個人が三人集まったとき、はじめて集団や社会というものが発生します。つまり、二人だけでは集団や社会が発生しないわけです、原則で言えば、三人以上集まって発生した集団や社会の中で生じる利害関係をどう調整するかということから、「公」の問題がでてくるのです。それが「公」の原型なんです。別に個人を超えて公があるわけじゃありません。」(『私の戦争論』50ページ)

 

マルクスの影響を受けた吉本ですから、その言説は、当然、上記のような「唯物論」「機械論」となります。社会契約説の思想家たち(ホッブス・ロック・ルソー)も個人が集まって社会が出来ると考えました。これは物質はアトムが集まって出来ていると考える考え方です。社会は個人の集合団体と考えるのですが、私たち個人はそうして出来ているのでもなく、社会もそうではありません。私たちは、ある時突然、真空の中に生まれ出るのではありません、歴史の中に、社会の中に、文化の中に生まれ出るのです。社会が私たちにアイデンティティを与えるんです。私たちは親を選べません、社会を選べません、国家を選べません。私たちは生まれた時に既に基礎的アイデンティティを与えられているのです。

 

リベラルは「社会は個人のためにある」「国家は国民のためにある」と言います、全体主義者は「個人は社会のためにある」「国民は国家のためにある」と考えます。仏教は「社会は個人のためにあり、個人は社会のためにある」「国家は国民のためにあり、国民は国家のためにある」と考えます。これは矛盾ですが、この矛盾のところに個人と社会、国民と国家があると考えます。この論理が仏教の「即非の論理」です。「即」は自己同一を意味し、「非」は絶対の矛盾を意味します。西田幾多郎はこれを「絶対矛盾的自己同一」と表現しています。

 

即非の論理」において、個人とは「私は私であって私ではない」、私であるということと私でないということは矛盾ですが、この矛盾こそが私なのだ、私とは矛盾した存在なのだということになります。「即非の論理」は「三昧」「純粋経験」「一次的意識」に於いて成り立つ論理であり、「動的具体的全体の論理」ということが出来ます。一方、欧米の論理、所謂「普通の論理」は、「三昧の反省」「純粋経験の反省」「二次的意識」すなわち「思惟」によって発展する「静的抽象的部分の論理」ということができます。私たちが「無我夢中」「没我」になって何事かに没入することを「三昧」といいます。三昧を経験しているのは我の筈ですが我は存在しない、私であって私ではないという「絶対矛盾的自己同一」が現成します、これが所謂「色即空」ということになります。仏教の立場は「三昧」であり、その「三昧の立場」から、私ということだけではなく、すべてのものごとを「色即空」と捉えます。花は花にあらず故に花である、月は月にあらず故に月であるということになります。「三昧」に於いては主観と客観が合一し、一体であり、主観と客観が未分なので、「主観即客観」ということになります。

 

「所謂論理」「欧米の論理」「普通の論理」は「客観的論理」であり、「仏教の論理」「即非の論理」は「主観即客観の論理」「主客未分の論理」ということが出来ます。欧米の論理は「客観」すなわち「認識の対象界」の論理で、「認識の作用」である私たちの主観は「認識対象界」の中には含まれていません。つまり、認識する私たち(作用)と認識される世界(対象)は乖離し、対立しているのです。一方「仏教の論理」「即非の論理」では主観と客観が一つになって、一つの世界を作っているのです。上記の吉本の立場、欧米の論理の立場では、個人と社会は対立しており、個人は社会の中には存在していないのです。一方、仏教の論理の方は、個人は社会の中にあります。

 

例えば、私たちは、「私は散歩しているという事実」と「私は散歩していると考える」ことの違いを峻別することが出来ます、「事実としての散歩」と「考えとしての散歩」の違いは明らかです。事実としての散歩に於いて、私たちは地を蹴り腕を振り呼吸をするといった「行為」に及びます。「行為する私」は動き行く風景を見、風を感じ、気温を感じ、香りを感じます。まさにこれこそが「現実」であり「事実」なのです、すなわち「動的具体的全体」です。現実としての私たちは自然の中、社会の中、文化の中で「行為」をしているのです。仏教において「行為」は「行」といってこのような特別な意味があります。

 

禅の公案に『説似一物即不中』というのがあります。

 

慧能「甚麼の処より来たる――何処から来た」
懐譲「嵩山より来たる――嵩山から来ました」
慧能「甚麼物か恁麼に来たる―― 一体何物がそのように来たのか」

 

この問いは「時と共にやって来るものは何か」つまり「現実・事実(現実の出来事)とは何か」というものですが、懐譲はこの問いに答えることが出来ず、8年間の苦行の末に「説似一物即不中」と答えることが出来ました。「説かれたものはそのものに似てるとしてもそれは当を得たものではない」「説かれたものは似て非なるものである」と答えたのです。現実・事実とは今現在の「動的具体的全体」ですが、この現実・事実を説くということは現実・事実を思惟するということです。現実・事実を思惟するには、現実・事実を反省しなければなりませんが、反省された現実・事実は既に過去であり、静止しており、抽象的であり、現実・事実とは似て非なる物です、「静的抽象的部分」です。「欧米の論理」「普通の論理」は現実・事実の「静的抽象的部分」である思惟の対象界の論理なのです。

 

真の個人とは「考えられた私」ではなく「行為する私」です。真の社会とは「行為する私」を包み込んでいる人為的環境です。この人為的環境は歴史的に作られて来たもので、いわば私たち日本民族の作品のようなものです。私たちはこの人為的環境である社会環境と自然環境という二重の環境の中で行為をしています。私たちにとって直接的で身近な環境は社会環境です。社会環境には有形・無形がありますが、何れも主観と客観が一体(主観の反映としての客観)となったものとして歴史的に発展してきたもので、広義の文化ということも出来ますす。社会環境は、「自らが作ったものが環境となって自らを作る」(西田幾多郎の表現)ということで、ある意味では「自縄自縛」的なところがあります。例えば、動物が巣を作るということと人間が家を建てるということとはその意味が全然違います。動物の巣はその動物の体の延長に過ぎませんが、人間の家は人間から客観的に分離独立して、かえって人間を制約します。つまり、新築の家によって行為する私は制約を受けます。また、私たちは法律を作ることによって法律に縛られます。

 

今年、2019年は日本にとって元号が変わる年です。奇しくも期を同じくして国際社会は大きく変わろうとしています。これまで国際社会を席巻してきた欧米の価値観が揺らぎはじめています。この状態を放置すると激動と混沌が待っています。民主主義、グローバリズムナショナリズムポピュリズム、一国主義、核兵器、人権、差別、移民・難民、原子力発電、慰安婦、徴用工、等々の国際社会の問題の解決には、行き詰まった欧米の論理・欧米の価値観だけでは対応できないところに来ています。国際社会には東洋と西洋という価値観の異なる二つの潮流がありますが、これからの私たちに求められているものは、この二つの潮流を遡って、その源流を明らかにすることだと思います。(つづく)

 

 

 

 

訪問者

就寝前にトイレに入ったら、便座に何やらゴミが付いていたので、取り払おうとよく見たら、1,5cm程の小さな小さな雨蛙が便座に鎮座していました。互いの目と目が合って、互いにビックリしました。夜中に何処からやってきたのか全く不思議ですが、驚きとうれしさでホッコリとした気分になりました。孤独を好む私を訪れる人は誰もいませんが、毎晩、ヤモリもやって来て私を楽しませてくれます。

 

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悟りの証明(69)

 

 一僧「如何なるかこれ祖師西来意」

趙州「庭前の柏樹子」

一僧「境をもって示すことなかれ」

趙州「吾、境をもって示さず」

一僧「如何なるか是れ祖師西来意」

趙州「庭前の柏樹子」

 

「如何なるかこれ祖師西来意」という問いは、仏教とは、仏とは、悟りとはといった問いと同じものですが、この問いに対する趙州の答えが「庭前の柏樹子」ということになっていますので、「庭前の柏樹子」が何を意味しているのかを明らかにしなければなりません。

しかし、「庭前の柏樹子」とは、趙州がたまたま庭先にあった柏樹子を見て答えたものなので、「庭前の柏樹子」自体に意味はありません。「庭前の石ころ」であっても差し支えありません。

 

一僧は、この趙州の「庭前の柏樹子」を「境」すなわち「意識の対象」ではないか、と言って抗議しますが、趙州はこの抗議を否定して、敢えて「庭前の柏樹子」と繰り返します。なぜ敢えて繰り返したのか、それは一僧の「庭前の柏樹子」と趙州の「庭前の柏樹子」とは全く別物であるということを強調するためです。一僧の「庭前の柏樹子」は「色」としてのそれですが、趙州の「庭前の柏樹子」は「色即空」としてのそれなのです。単なる「色」と「色即空」の「色」とは抜本的に相違するものです。

 

因みに、

 

廬山は煙雨 浙江は潮、

到らざれば千般の恨む消せず。

到り得 帰り来たれば別事なし、

廬山は煙雨 浙江は潮。

 

これは蘇東坡の詩ですが、最初の「廬山は煙雨 浙江は潮」は単なる「色」ですが、最後の「廬山は煙雨 浙江は潮」は「色即空」の色です。この詩について鈴木大拙は次のように評しています。

 

「彼(蘇東坡)はもはや昔日の彼ではないと言いえるのである。蘇東坡のみならず、廬山もまた昔日の廬山ではない。廬山のサット(存在)は今や廬山のチット(意識・思惟)を得たのだ。それは昔日の傍観者、蘇東坡にあっても同様である、そして両者はついにアーナンダ(歓喜)を得て一つとなるのである。これは世界が経験し得る最大の出来事ではないだろうか。」(『鈴木大拙選集3』禅による生活、P10)

 

一僧の「庭前の柏樹子」は単なる「境」(意識の対象)であり、悟りを得ていない一僧にとっては「境」としか考えられないものです。しかし、覚者である趙州の「庭前の柏樹子」は「境即人」の「庭前の柏樹子」なのです。「人」とは「境」の反対概念で「意識の作用」「意識のハタラキ」のことです。趙州の「庭前の柏樹子」は意識作用と意識対象とが一つになっているのです、意識作用は主観であり、意識対象は客観ですから、「主観即客観」すなわち「主客合一」の「庭前の柏樹子」なのです。「主客合一」あるいは「主客未分」においては主観は没して客観だけが顕現しますので、趙州の主観は顕現せずに客観だけが顕現しているので、これを表現すると「庭前の柏樹子」というっことになります。これが所謂「そのものに成りきる」ということの真意です。趙州は「庭前の柏樹子」に成りきっているのです。「成り切る」とは「意識の完全な統一状態」すなわち「三昧」「定」を意味し、この「統一状態」を現出する「統一力」を自得することこそが「悟り」なのです。

 

絶対に相矛盾する主観と客観が合一するということは、「主観即客観」ということであり、主観と客観は非(矛盾)でありながら即(自己同一)であるという鈴木大拙の「即非の論理」を意味し、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」ということを意味しています。

 

西田幾多郎は私たちの主客の「統一力」(心理学用語では統覚)について、次のように述べています。

 

「而して真の自己を知り神と合する法は、ただ主客合一の力を自得するにあるのみである。而してこの力を得るのは我々のこの偽我を殺し尽くして一たびこの世の慾より死して後蘇るのである。このようにして始めて真に主客合一の境に到ることが出来る。これが宗教道徳美術の極意である。キリスト教ではこれを再生といい、仏教ではこれを見性という。」(西田幾多郎全集第一巻、善の研究、P167~168)

 

私たちは皆、生まれながらに意識の統一力である「統覚」を持っています、正しい表現をすれば、私たちは統覚を持っているのではなく、統覚という意識のハタラキが私たちなのです、統覚という「当為」(Sollen)が私たちという「存在」(Sein)なのです。この「当為」と「存在」の一致を西田幾多郎は「事行」といっています。趙州の意識作用は「当為」であり、趙州の意識対象である「庭前の柏樹子」は「存在」です。この公案において、趙州は当為と存在が一致する「事行」のところに悟りがあると説いているのです。(つづく)

 

 

悟りの証明(68)

「善人なおもて往生を遂ぐいわんや悪人をや」

 

仏教を理解することの難しさは、今日に於いても尚、親鸞の上記・『悪人正機説』の正しい解釈がなされていないということを見れば明らかです。

 

因みに、吉本隆明親鸞に関する数冊の本を出版していますが、内容は全く低次元のもので一読にも値しないものです。マスコミに「知の巨人」(?)ともてはやされた吉本にしてこの程度ですから、何をか言わんやということになります。吉本のような仏教の曲解はオウム真理教のような邪教を生む危険性を常に孕んでいます。現に、その危険性は親鸞の存命中にも善鸞親鸞の長男)の間違った教化によって教団が混乱したために、親鸞自身が我が子を義絶するという事件が起きています。

 

親鸞浄土真宗の宗祖ですが、禅宗と同様に、「無分別」を説き、分別を超えた「信」をもって、仏教への「直入」、すなはち理屈抜き「分別抜き」で飛び込むことを奨励しました。上記の『悪人正機説』はまさにそのスローガンというべきものです。「善人なおもて往生を遂ぐいわんや悪人をや」とはまさに「無分別」そのものであり、その無分別を明言することで分別し、「無分別を分別」としているのです。

 

親鸞は神童と言われるほどの秀才で、9歳で出家し、20年間比叡山に籠もり、仏道修行に身命をなげうちました。親鸞としては仏道修行の行程である「教・行・信・証」の「教(論理的追求)」は極めたに相違ありませんが、肝心なもう一歩、「百尺竿頭進一歩」がならず、「悟り」を得ることなく失意のうちに比叡山を下山しました。下山後しばらくして浄土思想に遇い、そこで間もなく見性しました。親鸞は20年間の分別に分別を重ねた「分別修行」の末に、「無分別」に到達したのです。親鸞の20年は皮肉にも全く逆方向の修行だったのです。「向かえば即ち背く」を地で行く修行だったのです。親鸞が自らを「愚禿」と称して自嘲したのも宜(うべ)なるかなと頷けます。

 

「無分別」とは分別しないと言うことです、言語・概念をもって考えないということです、思惟しないということです。思惟とは現実を反省し人間の世界・人工の世界(カントの現象界)を構築することです。仏教は現実を反省し構成するのではなく、現実を現実のまま、ありのまま、認識することを説きます。カントも指摘したように、私たちは思惟することによって、その対象界・現象界を構築し、時間・空間・因果の虜になっているのです。この世界は自然必然の世界なので、私たちの自由はありませんし、「静的抽象的部分」の世界なので、十全な世界ではありません。私たちに自由はなく、自然必然によって行動するということになると、倫理・道徳というものは成立しません。集団生活によって社会を形成することによって生存する私たちが倫理をなくせば滅亡は必定です。

 

カントは『実践理性批判』の中で、次のように言っています。

 

「もし時間の中でその規定されている存在者に自由を与えようと思っても、その限りでは少なくとも、その存在者をその存在に於いては、あらゆる出来事の、従ってまたその行為の自然必然の法則から除外することは出来ない。(中略)それ故、もし自由を救おうと思うならば、時間の中で規定し得られる限りの物の存在は、従って自然必然の法則による因果は、ただ現象だけに与え、これに反し自由は物自体自身としてのまさにその同じ存在者に与えるよりほかに方法は残っていない。」

 

一体何を言いたいのかわかりづらい表現ですが、要するに、私たちは思惟の対象界(現象界)に属する限り、自然の因果から逃れることは出来ず自由はない。もし自由を求めるならば、現象界の住人ではなく、「物自体」の世界の住人にならねばならないと主張しているのです。カントの「物自体」という概念は「不明瞭な遺産」として後続を悩ませましたが、カントの哲学自体、この「物自体」という「仮定」の上に成り立っているところに弱点があります。これは「模写主義」の思想、すなはち私たちの意識を離れて、私たちの意識とは無関係に、私たちの意識の外に客観的に物が存在し、この客観的な物の存在を知ることが正しい知識であるという思想に基づいています。「私たちの意識の外に物が存在する」というのは推理による仮定に過ぎません。真理はいかなる仮定も必要としない故に真理なのです。私たちが正しい知識を得るには、仮定ではなく、現実や事実(現実の一つ)に基づかなければなりなせん。私たちは思惟すなわち分別によって自由を失い、しかも不確かな知識によって生きなければならなくなるのです。

 

仏教を理解するにはこの「物自体」を「三昧」「一次的意識」「純粋経験」「現在意識」と考えればわかりやすくなります。「物自体」とは現実そのもの、ありのまま、如如ということで、思惟の反省の対象になるものです。思惟は「物自体」を反省してその対象界(カントの現象界)を構築しているのです。これが私たちの所謂「世界」といっているものです。カントは私たちの意識の秘密である三昧の存在を看過していたので、「物自体」を仮定せざるを得なかったのです。

 

「三昧」「一次的意識」「純粋経験」「現在意識」等の世界は「無分別」の世界です。仏教はこの無分別を分別すること、無分別を意識することを私たちに求めるのです。仏教は、私たちが無分別を分別することで、無分別の存在を明らかにし、分別知とは抜本的に異なる「無分別知」・般若を自覚する(悟る)ことで自由と正しい知識を得て、真に充実した人生を送ることを悲願としているのです。(つづく)

悟りの証明(67)

慧能「甚麼の処より来たる。」(何処から来た)

懐譲「崇山より来たる。」(崇山から来ました)

慧能「甚麼物か恁麼に来たる」(一体何がそのように来たのか)

 

懐譲は、慧能のこの問に対し、即答できず、八年間の修行の末に「百尺竿頭進一歩」となり、次のように答えることが出来ました。

 

懐譲「説似一物即不中。」(説いて一物に似たるも即ち中らない)

 

「甚麼物か恁麼に来たる」「恁麼物恁麼来」とは「如として来るものは何か」「如来とは何か」「現実とは何か」「事実(現実の一事)とは何か」ということで、「ありのまま」とは何か、「動的具体的全体」とは何かという問いを意味しています。この問いに対して答えを出すには、言語・概念をもって思惟しなければなりませんが、その結果は、「静的抽象的部分」でしかない「現実に似たるもの」ということになります。思惟すると言うことは、カントがいうように、反省し構成するということを意味しています。思惟は、「動的具体的全体」である「三昧」「純粋経験」「現在意識」「絶対的現在」「いま・ここ」「一次的意識」を振り返り(反省)、それを時間・空間・因果によって構成する意識の「二次的なハタラキ」なのです。従って、肝心な思惟の拠り所、二次的意識の拠り所である現実(動的具体的全体)そのものを把握することが先決問題となり、どうしても「悟り」が必要ということになります。懐譲が「説似一物即不中。」と明言できたと言うことは、とりもなおさず、そこに懐譲の悟りがあったということができます。

 

馬祖「あれは何だ。」

百丈「雁です。」

馬祖「何処に飛んでいくのだ。」

百丈「みんな行ってしまいました」

(馬祖はつぶさに百丈の鼻を捻りあげで)

馬祖「飛び去ってはいないではないか。」

(百丈は痛さに悲鳴を上げながら省悟した)

 

雁が存在するのは「空間」であり、飛んで来た雁が去るのは「時間」であり「因果」です。私たちは、気がついていませんが、このように一瞬にして現実を反省し構成しているのです。しかし、私たちはここで重大な錯覚に陥ることになります。それは百丈自身もこの反省され構成された思惟対象の世界、時間・空間・因果の世界、所謂カントの「現象界」に属しているという錯覚です、意識作用界と思惟対象界の混同です。現実は意識作用界にあり、思惟対象界にはありません。馬祖はこのことを知らせるために、百丈の鼻を捻りあげて意識作用を直指したのです。「雁が飛んでいくのは思惟対象界に於いて」であり、百丈が存在しているのは意識作用界なのです。

 

意識作用が存在するのは、絶対的現在に於いてであり、「いま・ここ」に於いてであり、三昧に於いてであり、純粋経験に於いてであり、現在意識に於いてなのです。意識作用は常に「現在進行形」なのです。

 

私たちは、この宇宙、この自然、この世界の中に住んでいると思い込んでいますが、それこそが誰でもが陥る錯誤なのです。意識作用である私たちは決して意識対象界には存在しません。意識対象界は「物の世界」であり、生命のない「死の世界」なのです。

 

「三昧」「絶対的現在」「いま・ここ」「純粋経験」「現在意識」等はいずれもハタライテイル意識作用そのもの意味しているので、私たちはこれらを思惟の対象にすることは出来ません。従って知識として知ることは出来ません。悟ることの難しさはまさにここにあります。悟りは自らの経験を直覚・直観することによってのみ得られるものです。仏教ではこの直覚・直観を「般若」といいます。

 

ある和尚が弟子たちの目前に拄杖(長めの杖)を示して曰く、

 

「これがわかったら、お前たちの禅修行は終わるのだ。」

 

目前に示されたものをただ単に拄杖と言ってしまったら、懐譲が明言したように「説似一物即不中」ということになってしまいます。拄杖と言うには、先ず、「ありのままの物事」即ち「現実」「事実」を「直観」「直覚」しているはずです。まず最初に「動的具体的全体」すなわち「ありのまま」「現実」を「直観」「直覚」しているからこそ、それを「思惟」によって「反省」して拄杖という「静的抽象的部分」の表現が可能になるのです。以上の理解によって次の「公案」を解くことが出来ます。

 

「鳴らぬ先の鐘の音を聴け」

「隻手の音声を聞け」

「父母未生以前の面目は如何」

 

(つづく)

 

 

 

悟りの証明(66)

『百尺竿頭進一歩』〔百尺竿頭に一歩を進む)

 

これは長沙景岑〔唐代の禅僧)の次の偈に由来します。

 

「百尺竿頭不動人、雖然得入未為真。百尺竿頭須進歩、十方世界是全身。」

 

〔百尺竿頭不動の人、然も得入すると雖も未だ真となさず。百尺竿頭すべからく歩を進べし、十方世界これ全身。)

 

百尺竿頭でとどまっている人は、絶体無〔空)を体験したといっても未だ悟りを得ていない。百尺竿頭を更に一歩進み出れば、そこには全世界〔宇宙)があり、それが私たちの身そのものである。

 

仏道修行は「色→空→色即空」と進んでいきますが、空のとどまってはいけない、「色即空」に達しなければならない、色即空に達すれば、全世界〔宇宙)が私たちの身体そのものであるということがわかります。

 

西洋の哲学・思想では精神と自然〔私と世界〕、心と物とが分かれたままで、未だに、両者は統一されてはいません。ヘーゲルは精神の方面に、マルクスは物質〔自然)の方面に、それぞれ観念論や唯物論を展開し、一元化しようとしましたが両者を統一することは出来ませんでした。

 

一僧 「如何転得山河国土帰自己去。」

   〔どうしたら山河国土を転じて、自己に帰せしめることが出来ようか)

長沙 「如何転得自己成山河国土去。」

   (どうしたら自己を転じて山河国土にすることができようか)

一僧 「不会」

   〔わかりません)

長沙 「湖南城下好養民。米賤柴多足四隣。」

   〔湖南の城下は住みよい、米は安く薪は豊富で、いたるところ不足なし。)

 

自己に帰せしめようとしたら観念論に、自然〔山河国土)に帰せしめようとしたら唯物論になってしまいます。長沙の「湖南城下好養民。米賤柴多足四隣。」には精神〔民)と自然〔湖南城下)とが対立矛盾することなく、「相即相入」して、自然の恵みを享受する人々の日常が描かれていて、精神と自然とが統一されていることが見事に表現されています。精神は主観であり自然は客観ですが、精神即自然、主観即客観、すなわち「主客合一」のところに真実在があります。長沙はこの「精神即自然」「主観即客観」「主客合一」を「湖南城下好養民。米賤柴多足四隣。」という平易な日常の何気ない言葉で明確に表現しているのです。

 

「精神即自然」「心即物」「主観即客観」等を禅では「即非」といい、西田幾多郎は「絶体矛盾的自己同一」と言っています。絶体に矛盾するものが同一であるとは全くの「無分別」ということを意味しています。仏教はまさに「無分別」を説く宗教ということが出来ます。

 

善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」

「橋は流れて水は流れず」

「東山水上行」

 

仏教は私たちにこのような「無分別」を突きつけるのです。心〔精神)と身〔物質)に分裂してしまった私たちに、本来の、真実在としての私たちを取り戻すために。(つづく)

悟りの証明(65)

日曜日の誰もいない小学校で、一人で桜の花に見とれていると、「花に囲まれてお幸せですね!」という声が聞こえてきた。振り返ると、手押し車で通りがかった老婆が微笑んでいた。暫くの間、花と老婆と私は「相即相入」して「事事無礙の世界」に溶け込んだ。〔つづく)

 

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