悟りの証明

残日録

悟りの証明(60)

「善人なほもて往生をとぐ,いはんや悪人をや」(『悪人正機説』)

「橋は流れて水は流れず」

「東山水上行」

 

仏教のこのような主張には、私たちの「三昧の反省」「現在意識の反省」を前提とした論理そのものを否定し、仏教の論理である『即非の論理』に導こうとする意図があります。善人は善人ではない、だから善人なのだ。悪人は悪人ではない、だから悪人なのだ。橋は橋ではない、水は水ではない、だから橋であり水なのだ。善人即非善人、悪人即非悪人、橋即非橋、水即非水、等の「即非」とは、「即」が自己同一という意味であり、「非」が矛盾ということから「矛盾の自己同一」を意味しています。西田幾多郎はこれを「絶体矛盾的自己同一」と表現しています。

 

即非の論理』を理解するには、人間意識の原点であり根本である「三昧」という「意識の現場」に立ち戻らなければなりません。「三昧」に於いては未だ私たちの「普段の意識」である「二次的意識」「分別意識」は働いていません。「分別意識」は三昧の「動的具体的全体」である「現実」そのものを反省して「静的抽象的部分」とすることで意識の対象を得て成立する意識です。三昧に於いて働いている意識は「無分別の意識」「無意識の意識」で、この無分別の意識が分別をするところに「正受」が実現します。この「無分別の分別」のことを「般若」といいます。「正受」とは「動的具体的全体」である現実をそのまま正しく受ける(認識する)という意味です。例えば、私たちがサッカーを観戦している時や音楽に没入して我を忘れている時、我の意識は完全に無くなり三昧の境に入り、ふと我に返るまで無我になります。無我になりますが意識がないのかと言えば却って集中したクリアーな「覚醒した意識」がある筈です。この意識が、「無意識の意識」であり、この意識の状態が「三昧」であり、「動的具体的全体」すなわち現実・事実そのものを映す「正受」なのです。

 

「三昧」における自然のハタラキである認識作用(仏性)すなわち「般若」(知的直観)を体験(見性)することなく、言語・概念による論理的思惟に執着する私たちは、『般若心経』が指摘するように「一切顚倒夢想」の世界で生きているようなものです。私たちが知るべきは、物事それ自体であって、物事の解釈や説明ではないはずです。

 

一僧「如何なるか是れ道。」

投子「道。」

一僧「如何なるか仏。」

投子「仏。」

 

一僧「如何なるか是れ曹源の一滴水。」

浄慧「是れ曹源の一滴水。」

 

「覚者」は決してクダクダと説明や解釈をすることはありません。ただ「三昧」を直接に指し示すだけです。これが「直指人心」です。(つづく)

悟りの証明(59)

鳴らぬ前の鐘の音を聞け」

「隻手の音声を聞け」

「父母未生以前の面目は如何」

 

これからしばらく禅の「公案」について考えてみたいと思います。「公案」は悟りを得た者(覚者)であれば簡単に解けますが、そうでない場合は全く意味不明で、分別(思量=考えること)出来ません。「公案」は多様ですが、その目的は、何れも「無意識の意識」「無分別の分別」「無知の知」「無作の作」「無為の為」等が現成する「意識の現場」である「三昧」「一次的意識」の存在を知らしめ、その意義の理解を促し、広く世に知らしめることにあります。

 

一僧 「兀兀地 思量什麼。」(不動の姿勢で何を考えているか)

薬山 「思量箇不思量底。」 (この思量を絶したものを思量しているのだ)

一僧 「不思量底、如何思量」 (考えられないものをどうして考えるというのか)

薬山 「非思量」(所謂思量ではない)

 

「思量箇不思量底。」とは「無意識の意識」「無分別の分別」「無知の知」を意味しています、つまり、考えられないものを考える、無意識を意識する、無分別を分別する、無知を知ると言うことを意味しています。考えられないものを考えるには「体験」するしかありません。一般的な意味での「体験」は「体験を反省したもの」「体験を思惟したもの」で、体験そのものではありません。厳密な意味での「体験」は、これまで述べてきたように「三昧」であり、「一次的意識」であり、「現在意識」です。

 

道元禅師はこの「三昧」を私たちの「赤裸々な心」「ありのままの心」「ありのままの意識」として「赤心」と言い、私たちの心(意識)の動きは、「赤心片々」であると言っています。「赤心片々」とは赤心(三昧)は片々として動く、「非連続の連続」(西田幾多郎の表現)であるという意味です。私たちの意識は、「三昧(一次的意識)」→「普通の意識(二次的意識)」→「三昧(一次的意識)」というように交互に動いていきます。しかし私たちは「三昧」「赤心」「一次的意識」の存在に全く気が付いていないのです、「日に用いて知らず」なのです。道元禅師は、「三昧」が片々としていることを「前後際断」とも言っています。

 

「しるべし、 薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといへど も、前後際断せり。」(『現状公案』)

 

「前後際断」とは「三昧」の有り様を表したもので、一つの三昧には当然その前後(始まりと終わり)がありますが、その三昧の前後には二次的意識があり、その三昧は個立・孤立しているという意味にります。三昧には一瞬の三昧から、座禅のような数十分の三昧があります。道元禅師は座禅を「王三昧」といって「只管打座」(ひたすら座禅に邁進する)に努めることを最上の仏道修行としました。

 

「三昧を知る」ことが悟りなので、仏道修行は「三昧を知る」ことに尽きます。私たちが何かに無我夢中になるとき、そこに三昧があります。「無我」であったり、「忘我」であったり、「没我」であったり、要するに我が無いときに三昧が現成します。「三昧」に於いては、我はないにもかかわらず意識・認識があります。一体、この意識・認識は誰のものなのかということになりますが、それこそが「仏」ということになります。しかしここで重要なことは、仏という存在が意識したり認識すると考えてはならないということです。意識したり認識するその「ハタラキ」を仏と名付けているのです。仏がハタラクのではなく、ハタラクことが仏なのです。

 

一般的な意味に於いて、認識する、思量する、思惟する、知る、判断するということは「反省」と言うことを意味します。私たちが考える時、何かを考えます、つまり考えるという「作用」に対して、考えられる「対象」が必要です。この対象は何処からか来るかといえば、「三昧の反省」からということになります。つまり、三昧を反省することによって対象を得て考えているのです。

 

西田幾多郎は私たちの「知る」「判断する」と言うこと、すなわち私たちの知を次のように三つに分類しています。

 

1、直観=直覚

主客が未だ分かれない、知るものと知られるものとが一つである、現実そのままの、不断進行の意識である。

2、反省=思惟

体験を反省して比較し判断する。ベルグソンの純粋持続を同時存在の形に直して見ることである、時間を空間の形に直して見ることである。 

3、自覚=知的直観

自己が自己の作用を対象として、これを反省すると共に、このように反省すると言うことが直に自己発展の作用である、かくして無限に進むのである。所謂フィヒテの「事行」。

 

悟りは三昧に於いて自ずとハタライテいる3の「知的直観」によって「動的具体的全体」としての現実・事実を知る能力である「般若」の存在を「体験的に知る」ということになります。「般若」が「動的具体的全体」すなわち現実そのものを知る能力に対して、2の反省=思惟は「動的具体的全体」である三昧・現実を静的に、抽象的に、部分的に知る能力と言うことが出来ます。

 

「道得也三十棒道不得也三十棒」(言い得るも三十棒、言い得ざるも三十棒)

 

「言っても言えなくても警策で何度も打つ」ということで、「一体どうすればいいの」ということになりますが、言うということは三昧を反省(思惟)しているので、そこには既に現実・事実はありませんし、言えないということはそこには何の認識もないということになり、何れもダメだということになります。現実・事実というものは「当事者」にしかわからないものですが、実のところ、当事者ですらわからないというのが一般です。(つづく)

  

悪夢

そう遠くない未来、大韓民国朝鮮民主主義人民共和国とは核保有のままで統一されて「小さな中国」が誕生します。

  

米国は北朝鮮の暴挙を阻止できるでしょうか。駐韓米軍兵士とその家族、韓国国民、日本国民の多大な犠牲や国際世論等を考慮すると、トランプといえども武力行使は考えられません。米国の対北軍事圧力や中国の対北経済制裁は、国際社会、韓国、日本に配慮したジェスチャーに過ぎません。北朝鮮はそれを見抜いていて、核開発を継続します。その間、南北統一の悲願を持つ南北両国は接近し、中国の仲介を得て、統一実現への具体策を模索するようになります。韓国は北朝鮮の核武力を得、財閥を分社化して国営企業とし、就業率を上げ、格差を是正します。北朝鮮金正恩の生命・身分・財産の保証と経済発展の確約を得ることで、両者はウインウインの関係で、対等な立場で統一され、中国型の南北統一国家(共産主義国家)が誕生することなります。かくして、南北朝統一国家は、中国、ロシア、日本によって翻弄されてきた長い歴史に終止符を打ち、真の自立国家となります。結果、38度線は対馬にまで南下して対馬線となり、日本はアメリカ軍の最前線の不沈空母となってアメリカに利用されることになります。残念ながら、以上が最も「自然な流れ」ではないでしょうか。

人権主義・偽善の思想(4)

社会契約思想に基づく人権思想は、私たち日本国民に、他人に害を与えない限り、全くの自由と権利を与えて、国民を「人格なき神」に仕立て上げてきました。

 

「この国民が保証する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う。」憲法第十二条

 

これは、一見、誰でも納得のいく条文ですが、実地に於いては「公共の福祉」という文言は全く「死語」になっています。この「公共の福祉」の意味は、単に他人を害してはいけないという意味(一元的内在制約)で、他人に害を与えない限り、何をやっても全く自由ということを意味しています。私たちは、三大義務(教育・勤労・納税)を果たしさえすれば、他人に害を与えない限り、無制限の自由と権利を有しているのです。これがまさに「人権神授説」「天賦人権説」というもので、人間が神になりかわったということを意味しています。しかし、この神は「理論理性」によって考えられた神なので、「実践理性」は無視され、倫理も無視され、「人格」も無視された、「人格なき神」ということになります。私たちが住んでいる社会は「人格なき神」が荒ぶる社会なのです。

 

この「人格なき神」の困ったところは、「悪いことはしない代わりに、善いこともしない」という倫理(道徳)が欠落した点にあります。私たちは、元東京都知事舛添要一氏が「違法性はない」と主張しましたが、失脚に追い込みました。私たちが都知事に求めたものは「ただ悪いことをしない」ということだけではなく、「善いことをしてもらいたい」という倫理的期待があったからです。私たちは都知事に「人格」を求めていたのです。悪の反対語は善ですが、悪を行わないことを善とは言いません、善を行うことが善なのです。自由や権利だけを叫ぶ人権主義者が幅をきかせる現下の状況では、桝添氏を失脚に追い込んだ私たちが、やがて桝添氏と同様の存在になってしまう恐れがあります。

 

「私の勝手でしょう」という子供の自由・権利の主張に対して、「勝手ではない!責任と義務がある!」と諫める大人は少なくなりつつあります。なぜなら、人権主義者の「子どもの権利」という声が聞こえてくるからです。私たちは紛れもなく「人権ファシズム」の時代に生きているのです。

 

「人権ファシスト」は例外なく「主知主義者」「リベラル」で、理論理性を駆使して一般的で普遍的な「あるもの=存在(ザイン)」を追求し、「真偽」を明らかにしようとしますが、私たち普通の人間は、情意を重んじて「あるべきもの=当為(ゾルレン)」を追求し、「善悪」の判断に拘り、倫理を重んじます。主知主義者の誤謬は「真偽」と「善悪」を混同することにあります。このブログで吉本隆明大江健三郎を批判してきましたが、彼らは第一級の知識人であるにもかかわらず、真なるものが善であると思い込んでいて、真なるものは必ずしも善ではないということを知らないのです。例えば、原爆やクローン人間は科学的な「真」ですが、「善」である筈がありません。「理論理性」による「真」と「実践理性」による「善」とは全く似て非なるものです。(つづく)

人権主義・偽善の思想(3)

理想的民主主義は理想的人格を具えた個人(国民・市民・人民)の集団によって成立します。理想的な社会は理想的な個人がいてはじめて成り立つのです。人権を主張する権利には「人格」という義務が伴います。人権思想に多大な影響を与えたルソーによれば、「一般意志」は常に「公共の利益」を目指す「公的人格の意志」であとしていますが、「公的人格の意志」である一般意志については、ただ啓蒙が必要であると言っているだけです。つまり、ルソーは自由・平等という権利を主張するにとどまり、義務である「人格の陶冶」については何もふれていません。ルソーは何故人格について掘り下げなかったのか。それは単純に、ルソー自身が人格破綻者であり、掘り下げることが出来なかったからです。ルソーの「社会契約説」は全くの「片手落ち(敢えて差別用語を使います)」の説と言わざるを得ません。

 

共産党は「国民あっての国家である」といっていますが、これは全くの間違いです。「国民あっての国家・国家あっての国民」という矛楯の自己同一のところに真の民主主義が成立します。(このような論理を、仏教の「即非の論理」といいます)

 

数年前、片山さつき氏がつぎのようなツイートをして炎上したことがあります。

 

『国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような「天賦人権論」をとるのはやめよう、というのが私達の基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆が考えるような前文にしました!』

 

因みに、このツイートの後半部分は、ジョン・F・ケネディ大統領就任演説にヒントを得たものと思われます。

 

「国があなたのために何をしてくれるのかを問うのではなく、あなたが国のために何を成すことができるのかを問うて欲しい。」

 

この片山氏のツイートに対して、小林節慶大名誉教授が「社会契約説」の一般的解釈の立場から、

 

「個々の国民が個性を持った存在であり、かつ幸福に生きる権利を持っているという考えは普遍的な考え方だ。」

 

と主張して片山氏を批判していますが、このは全くナンセンスな批判でしかありません。小林氏の主張は権利の主張に止まり、「義務」については何等の言及もありません。これが日本の憲法学者のレベルなのです。

 

自然法」→「自然権」→「人権」は社会秩序を危うくする危険な思想です。「人権」は「自然権」に由来し、「自然権」は「自然法」にその根拠を置いています。「自然法」に由来する「自然権」とは、「国家によって与えられた実定法上の権利ではなく,国家成立以前に人が生まれながらにして有するとされる権利」「事物の自然本性から導き出された永遠普遍の権利」あるいは「神に由来する権利(天賦人権説)」ということになっていますが、その実、私たちの「理論理性」による「実定法」に過ぎません。

 

自然法」なるものは「ローマ法」にその起源があります。「ローマ法」はローマ市民の法でしたが、ローマが他国を征服したとき、ローマ人は他国民を律するために「ローマ法」をそのまま適用することを良しとしませんでした。そこで「ローマ法」から他国民にも共通の法を選んで、すべての被征服国家に共通の法体系である「万人法(ユース・ゲンテイウム)」を制定しました。「万人法」は、ローマ人にのみ適用される「市民法(Jus civile)」に対し、ローマ人と非ローマ人および非ローマ人相互間の法として、主に「商取引・契約」における柔軟な法として誕生したのです。その後「万人法」はストア哲学によって理論的に洗練され、すべての法律の根柢となる自然法の模型となったのです。「自然法」の考えでは、神に由来する人間の理論理性は神意を把握することが出来、それによって我々を支配する法則を定めることが出来、これらの法則が永遠不変のものと考えたのです。つまり、ここで神と人間がすり替わってしまったのです。神に代わって人間を理念とする西洋近代がここから始まったのです。人間は自らを神の代理とすることで「完璧な人間」という重荷を背負うことになったのです。「自然法」とは「完璧な人間」を前提(仮定)とした実定法なのです。

 

陶冶なき人格が「人権」を主張するとき、そこにはただ、社会の混乱があるのみです。(つづく)

人権主義・偽善の思想(2)

先のブログで、「人権主義」は「錯誤の思想」「偽善の思想」であり、その弊害の究極するところは人間のロボット化であり家畜化であるということを述べました。

 

韓国は日本に対する「ルサンチマン国家」であり、日本にとっては「反面教師」として重要な隣国ですが、「人権」が絡んだ両国の問題として「慰安婦問題」があります。「慰安婦問題」に関する韓国の戦略は、この問題を「女性の人権問題」として、日韓の二国間問題を越えた、「国際的な問題」「グローバル・イシュー」として、国際社会に訴えて、国際世論のバックアップを得ようとしている点にあります。この点において、日本は不利な立場に立たされています。「人権問題」となると、時空を超えた問題、すなわち国境を越えた国際問題となり、しかも「時効」のない問題となります。「時効」がないということは「事後法」の適用が可能であるということであり、未来永劫「ゴールポスト」を動かしながら決して問題解決しないというのが韓国の立場です。韓国としては、とにかく、問題を解決することなく、騒ぎを大きくして国際化し、恨みを晴らすとことで国民を情緒的に統一すると共に対日外交における自国の優位性を確保することを狙っています。

 

先日、「慰安婦問題に関する日韓合意」が成立しましたが、案の定、「不可逆の合意」にもかかわらず、見直しの動き、ゴールポストを動かそうとする動きが出て来ています。この動きを支える韓国側の考えはどのようなものか、おおよその想像はつきます。

 

1、日韓合意はあくまで主権国家間の合意で、人民主権の合意ではない。

2、慰安婦像の設置はウイーン条約に反するというが、国際法よりも国内法が優先するので問題はない。(国際法が優先すれば、国家の主権は犯され、国際社会そのものも成り立たない)

3、慰安婦像の設置は民間によるもので、主権在民の立場から、国家による行政介入は難しい 。よって像の撤去は出来ない。

4、国連委が日韓合意を見直すよう勧告している。日本政府は見直しの話し合いに応じなければならない。

5、韓国憲法裁判所は、韓国政府が慰安婦の賠償請求権に関し、具体的解決のために努力していなことは慰安婦の基本権を侵害する違憲行為であるとしている。

 

これは国内法と国際法の使い分けをしたダブルスタンダードで独善的な考えですが、重要なのは4で、韓国にしてみれば、とにかく、「問題を解決しない」で、大騒ぎしながら、未来永劫ズルズルと引きずっていくことこそが眼目なのです。当事者である存命の慰安婦高齢なので、近い将来「生き証人」が消えていきます。慰安婦像は「生き証人の代替」として、韓国の「永遠の慰安婦戦略」として不可欠な存在なのです。釜山の慰安婦像の撤去はあり得ますが、韓国国内は固より国際社会のおける慰安婦像は増え続けることでしょう。

この問題の抜本的な解決は容易ではありませんが、二三の案はないわけではありません。

 

第一案 人権主義者が依拠する「社会契約」を逆手にとる。

各国の憲法や法律は「社会契約」によって成り立っていますが、社会契約の当事者は国家と国民(人民)ではなく、あくまで国民間の契約で、この場合の国家や公益は単なる概念に過ぎず、実体はありません。従ってドイツの戦後処理の場合、ナチスドイツとは単なる概念であり、戦争責任は国家や軍隊にあるのではなく、あくまで具体的犯罪(個別案件)を犯した個人(国民)にあるとしています。従って、ドイツは国家として正式に謝罪したことはありません。社会契約論の立場では、国家(政府)の謝罪は見当違いであり、個人の犯罪があるのみです(個人の戦争犯罪は決着済み)。

 

第二案「慰安婦関連プロパガンダ禁止法」の制定。

韓国にとっての慰安婦問題は「女性の人権問題」ではなく、その名を借りた政治的プロパガンダであることは明らかです。この法の制定によって、国内的には、慰安婦問題で暗躍する人権活動家の偽善活動を封じ込め、騒ぎの沈静化をはかり、国際的には国連人権委その他の人権団体に対して真っ向から法律論争を仕掛けていくということになります。(つづく)

人権主義・偽善の思想(1)

2017.5.17 の産経ニュースによると、鳩山由紀夫元首相は、「日本列島は日本人だけのものではない」「日本列島はすべての人間のもの」等と言って、「地球社会」「お花畑」の夢を見続けているようです。一般には、この夢は突飛なものとして一笑に付しますが、人権主義者にとっては決して夢ではなく、論理的必然の帰結と考え、信じています。確かに「人権」というものを論理的に<中途半端>に考えてゆけば、「国民国家」は崩壊し、国境はなくなり、国家間の「戦争」はなくなり、みんな仲良し地球市民の「お花畑」が実現することになります、「人民主権」に徹すれば「国家主権」は消失してしまうからです。しかし<現実的に深く考えれば>、人間に民族意識、人種意識、宗教意識等があり、それらに基づく「文化」がある以上、国境はなくなることはなく、紛争もなくなることはありません。なぜなら、「文化」は国家や国民のアイデンティティーだからです。「文明」(経済・科学・技術等)は物質的なものなので普遍化・グローバル化しますが、「文化」は「精神的」「歴史的」「社会的」なものなので民族や国土に制約されるのです。多民族国家である米国は「地球社会」に近い国家ですが、トランプの出現によって逆行し始めています。EUも又「地球社会」に一歩踏み出している存在ですが、英国の離脱で後退してしまいました。

 

万が一、仮に、「地球社会」が実現したとしてもその社会は「お花畑」「地上の楽園」などではなく、「奴隷社会」「ロボット社会」となることは歴史が証明しています。共産主義思想は「資本主義経済が人間(プロレタリアート)を疎外する」という経済に基礎を置いた一種の「文明論」であり、人間の精神面=「精神文化」は除外されています。このことを洞察していた三島由紀夫共産主義から日本文化を防衛しようとして『文化防衛論』を著したのです。ソ連コルホーズ(集団農場)、ソフォーズ(国営農場)において過酷な労働を強いられた市民(人民)はまさに家畜以外の何ものでもありませんでした。中国においても、その薫り高い歴史・伝統・文化は「文化大革命」によって破壊され、アイデンティティーのない無機質な物質国家となり、人民(市民)もアイデンティティーをなくして「物欲」だけのロボットになりつつあります。中国人民は精神文化的存在から物質文明的存在へと「物質化」しているのです。共産主義は「唯物論」=「ただものろん」に依拠しているので、当然の成り行きなのです。人権思想(社会契約論)は歴史・伝統・文化を否定あるいは無視して「自然状態」から出立しますが、その誤りはまさにその「自然状態」を仮定することにあります。ルソーは「自然状態」を理想的な「お花畑」として、その「お花畑」を支える「原理」を明らかにしようとしました。ルソーの戦略は、まず先に、「理念」「理想」の世界すなわち「お花畑」を描き、その「お花畑」を支える原理を明らかにしたの後に、それを現実に適用しようとしたのですが、このようなアプローチは誤りであると指摘したのが同時代を生きたカントです。カントの『純粋理性批判』につぎのような一文があります。

 

「理性概念は、その名前からしてすでに前もって、それが経験内に制限されたくないということを示している。なぜなら、理性概念の関与する認識は、どのような経験的認識も単にそれの一部に過ぎないような認識(おそらくは可能な経験の全体、あるいは可能な経験の経験的総合)であり、もちろんいかなる実際の経験もそこでは到底完全には到達しないが、やはりそれに所属しているような認識であるからである。」

 

「理性概念」とは「理念」のことで、ここでは「お花畑」を意味します。理念は現実(経験・実践)に制限されない「自由」ということを示しています。何故なら理念・理想を求める「理論理性」の使用は経験的認識はもとより、いかなる現実的認識をもその中に飲み込んで、全くの非現実世界を創出してしまうからです。カントによれば、私たちは「理論理性」によって「理念」「理想」を追い求めますが、「理論理性による推理」=「お花畑」論は矛楯に陥り必然的に混乱をもたらすとして、「理論理性の限界」を説きました。「神の存在」「魂の不滅」人権論者が唱える「自由」は、要請されるが論証不可能として、このようなテーマは「実践理性(意志・感情経験)」に委ねるべきであると主張しました。

 

理性(論理理性)は地を離れて空を「自由」に飛び回り、山を俯瞰し、山を把握しようとします。一方、実践・経験(意志や感情)は決して地を離れることなく、山の中に居て山を把握しようとします。前者は「傍観」の立場であり、後者は「自観」の立場です。カントは、真の「倫理」は実践の立場、「自観」の立場においてはじめて成り立つと説いているのです。

 

仏陀は蓮華を座にしています。蓮華(蓮の花)は泥沼にしか咲かない花です。ドロドロとした人間の情念(実践・経験)あってこそ絶美の「善の花」が咲き出でるということを静かに訴えかけているのです。松本清張推理小説の巨匠ですが、その作品は単なる「犯罪推理小説」の域を超えています。人間の真実は犯罪事件という非日常において露わになります。殺人・傷害・強盗・誘拐・脅迫・詐欺・恐喝・暴行・強姦・ストーカー等の刑事事件には、負の動機(憎悪、恨み、復讐、絶望、性欲、etc.)すなわち「泥沼」と正の動機(慈悲=正義、犠牲、約束、同情、etc.)すなわち「蓮華」の種子が混在しています。例えば、夫が、不治の癌で苦痛にのたうち回る妻を、延命治療を選ばず殺人に及ぶとき、夫は自らが殺人罪に問われることを認識していながら自らを犠牲にして殺人という罪を犯すのです。そこには、確かに、「悲しい慈しみ」=「慈悲」=「蓮華」が在ります。松本清張はその「蓮華」を描きたかったに相違ありません。

 

「人権活動」は須く「慈悲」による「慈善活動」であるべきで、間違っても「政治活動」であってはならないのです。「政治活動」としての「人権活動」は偽善に過ぎません。人権活動家には「自由には責任」「権利には義務」という「単純な常識」を踏まえてもらいたいものです。(つづく)