悟りの証明

残日録

人権主義・偽善の思想(1)

2017.5.17 の産経ニュースによると、鳩山由紀夫元首相は、「日本列島は日本人だけのものではない」「日本列島はすべての人間のもの」等と言って、「地球社会」「お花畑」の夢を見続けているようです。一般には、この夢は突飛なものとして一笑に付しますが、人権主義者にとっては決して夢ではなく、論理的必然の帰結と考え、信じています。確かに「人権」というものを論理的に<中途半端>に考えてゆけば、「国民国家」は崩壊し、国境はなくなり、国家間の「戦争」はなくなり、みんな仲良し地球市民の「お花畑」が実現することになります、「人民主権」に徹すれば「国家主権」は消失してしまうからです。しかし<現実的に深く考えれば>、人間に民族意識、人種意識、宗教意識等があり、それらに基づく「文化」がある以上、国境はなくなることはなく、紛争もなくなることはありません。なぜなら、「文化」は国家や国民のアイデンティティーだからです。「文明」(経済・科学・技術等)は物質的なものなので普遍化・グローバル化しますが、「文化」は「精神的」「歴史的」「社会的」なものなので民族や国土に制約されるのです。多民族国家である米国は「地球社会」に近い国家ですが、トランプの出現によって逆行し始めています。EUも又「地球社会」に一歩踏み出している存在ですが、英国の離脱で後退してしまいました。

 

万が一、仮に、「地球社会」が実現したとしてもその社会は「お花畑」「地上の楽園」などではなく、「奴隷社会」「ロボット社会」となることは歴史が証明しています。共産主義思想は「資本主義経済が人間(プロレタリアート)を疎外する」という経済に基礎を置いた一種の「文明論」であり、人間の精神面=「精神文化」は除外されています。このことを洞察していた三島由紀夫共産主義から日本文化を防衛しようとして『文化防衛論』を著したのです。ソ連コルホーズ(集団農場)、ソフォーズ(国営農場)において過酷な労働を強いられた市民(人民)はまさに家畜以外の何ものでもありませんでした。中国においても、その薫り高い歴史・伝統・文化は「文化大革命」によって破壊され、アイデンティティーのない無機質な物質国家となり、人民(市民)もアイデンティティーをなくして「物欲」だけのロボットになりつつあります。中国人民は精神文化的存在から物質文明的存在へと「物質化」しているのです。共産主義は「唯物論」=「ただものろん」に依拠しているので、当然の成り行きなのです。人権思想(社会契約論)は歴史・伝統・文化を否定あるいは無視して「自然状態」から出立しますが、その誤りはまさにその「自然状態」を仮定することにあります。ルソーは「自然状態」を理想的な「お花畑」として、その「お花畑」を支える「原理」を明らかにしようとしました。ルソーの戦略は、まず先に、「理念」「理想」の世界すなわち「お花畑」を描き、その「お花畑」を支える原理を明らかにしたの後に、それを現実に適用しようとしたのですが、このようなアプローチは誤りであると指摘したのが同時代を生きたカントです。カントの『純粋理性批判』につぎのような一文があります。

 

「理性概念は、その名前からしてすでに前もって、それが経験内に制限されたくないということを示している。なぜなら、理性概念の関与する認識は、どのような経験的認識も単にそれの一部に過ぎないような認識(おそらくは可能な経験の全体、あるいは可能な経験の経験的総合)であり、もちろんいかなる実際の経験もそこでは到底完全には到達しないが、やはりそれに所属しているような認識であるからである。」

 

「理性概念」とは「理念」のことで、ここでは「お花畑」を意味します。理念は現実(経験・実践)に制限されない「自由」ということを示しています。何故なら理念・理想を求める「理論理性」の使用は経験的認識はもとより、いかなる現実的認識をもその中に飲み込んで、全くの非現実世界を創出してしまうからです。カントによれば、私たちは「理論理性」によって「理念」「理想」を追い求めますが、「理論理性による推理」=「お花畑」論は矛楯に陥り必然的に混乱をもたらすとして、「理論理性の限界」を説きました。「神の存在」「魂の不滅」人権論者が唱える「自由」は、要請されるが論証不可能として、このようなテーマは「実践理性(意志・感情経験)」に委ねるべきであると主張しました。

 

理性(論理理性)は地を離れて空を「自由」に飛び回り、山を俯瞰し、山を把握しようとします。一方、実践・経験(意志や感情)は決して地を離れることなく、山の中に居て山を把握しようとします。前者は「傍観」の立場であり、後者は「自観」の立場です。カントは、真の「倫理」は実践の立場、「自観」の立場においてはじめて成り立つと説いているのです。

 

仏陀は蓮華を座にしています。蓮華(蓮の花)は泥沼にしか咲かない花です。ドロドロとした人間の情念(実践・経験)あってこそ絶美の「善の花」が咲き出でるということを静かに訴えかけているのです。松本清張推理小説の巨匠ですが、その作品は単なる「犯罪推理小説」の域を超えています。人間の真実は犯罪事件という非日常において露わになります。殺人・傷害・強盗・誘拐・脅迫・詐欺・恐喝・暴行・強姦・ストーカー等の刑事事件には、負の動機(憎悪、恨み、復讐、絶望、性欲、etc.)すなわち「泥沼」と正の動機(慈悲=正義、犠牲、約束、同情、etc.)すなわち「蓮華」の種子が混在しています。例えば、夫が、不治の癌で苦痛にのたうち回る妻を、延命治療を選ばず殺人に及ぶとき、夫は自らが殺人罪に問われることを認識していながら自らを犠牲にして殺人という罪を犯すのです。そこには、確かに、「悲しい慈しみ」=「慈悲」=「蓮華」が在ります。松本清張はその「蓮華」を描きたかったに相違ありません。

 

「人権活動」は須く「慈悲」による「慈善活動」であるべきで、間違っても「政治活動」であってはならないのです。「政治活動」としての「人権活動」は偽善に過ぎません。人権活動家には「自由には責任」「権利には義務」という「単純な常識」を踏まえてもらいたいものです。(つづく)

理性の害悪(5)

この世に悪魔というものが存在するとしたら、それはマルクス以外にはあり得ません。マルクスに洗脳された、あるいはマルクスの思想を利用した、スターリン、レーニン、毛沢東、ポル・ポト、金日成、その他の共産主義国の独裁者達は、共産主義社会の実現のために反対派を大量虐殺し、国家を疲弊させ、国民の自由を奪っただけではなく、世界を東西に分断し、世界中の紛争の原因となり、その害毒は今尚厳然と存在し、未来の暗雲となっています。

 

マルクス主義の誤謬は少なくありませんが、分けても、決定的な誤謬は、その「目的設定」にあります。私たちは、何かを行う場合、そこには必ず「目的」というものがあります。行いの正しさはその目的の正しさいかんにあります。マルクスは「共産主義社会」の実現を目的とし、その内容は、この社会の中で生きる民衆こそ「各人は、能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」(ゴータ綱領批判』)「幸福」な民衆であるという、単なる「ドグマ」(独断的教義)を目的としました。

 

「各人は、能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」ことが出来ることが私たちの幸福なのでしょうか。「何の目的もなく」能力に応じて働き、必要に応じて受け取ることが幸せなのでしょうか。仏教では、次のように、人間の幸せ(人間の生きる意義)とは「自己実現」あるのみと説いています。

 

「この世で、自らを島とし、自らを頼りとして、他人を頼りとせず、法を島とし法を拠として、他を拠とせずにあれ、斯くして、私は自己に帰依することを成し遂げた。」(大パリニッバーナ経)

 

私たちには「個性」があります。最近のDNA研究によれば、同じDNA型の別人が現れる確率は4兆7000億人に1人ということになっています。私たち一人一人は「特殊」であり「個物」(独立自全の存在)そのものです。個性ある私たちは、決して「一般」には還元できない、その唯一の個性を生きるのです、自己実現を生き、自己実現に生きるのです。

 

私たちには「欲求」があり、私たちは欲求を満たすために生きている存在であると言うことが出来ます。アメリカの心理学者アブラハム・マズローの『欲求段階説』によれば、私たちの欲求には、「生理的欲求」→「安全の欲求」→「社会的欲求」→「承認の欲求」→「自己実現の欲求」→「自己超越の欲求」等があり、これらの欲求は「生理的欲求」から始まって、これが満たされると順次上位の欲求に移って行き、最後に「自己超越の欲求」が出てくるということになっています。しかし実際には、「自己実現の欲求」は既に「生理的欲求」の段階で芽生えていて、これら六種の欲求のすべては「自己実現の欲求」と見ることができます。例えば、最下位の「生理的欲求」の段階でも、親が自らを犠牲にして最後の食を子に与えるというような自己実現もあります。時には窮極の自己実現として、自らの死を意味することもあります。

 

私たちの幸福を考える時、主観と客観の両面から考える必要があります。幸福を客観的に考えれば、衣食住という物質が必要なことは言うまでもありませんし、これを政治的に表現すれば「最大多数の最大幸福」という量的(唯物論的)な表現になります。一方、幸福を主観的に考えれば、「自己実現」という目的がなければなりません。動物と私たち人間を分かつものは、衣食住という物質に満足することなく、最後の一呼吸まで、自己を実現していくところにあるます。

 

理性が求めるものは、誰もが納得する「一般的」なものでなくてはなりませんし、一般的であるためには「主観を排除」して、「客観的」でなくてはなりません。理性の陥穽はまさにこの「主観の排除」にあると認識した上で、理性を使うことを知らなければ、マルクスのような根本的な誤りを犯してしまうことになります。

 

共産主義から日本文化を防衛しようとした(『文化防衛論』)三島由紀夫の「主体なき理性」(=主観なき理性)という一言は、マルクス主義を瞬殺し、理性を職業とするリベラルの知識人、言論人、ジャーナリスト、政治家等の言説を黙殺して余りある力を持った「至言」であり、芸術家ならではの「美しい言葉」です。(つづく)

理性の害悪(4)

近代哲学の完成者と言われるヘーゲルの「理性」もまた、「全体主義」と「泡沫のような個人」という世界を描きました。ヘーゲルは「精神と自然」「心と物」というデカルト以来の二分された世界を「時間」すなわち「歴史」を導入することによって、人類の知の累積の果てに、精神への一元化を企てました。東洋→ギリシア・ローマ→ゲルマン→ヘーゲルが生きていた時代、という悠久の世界史において、人類は主観(意識の作用)と客観(意識の対象=自然や社会の一切)との一致(真理)を求めて、矛楯の統一(止揚)という動的認識(弁証法的認識)の「意識の経験」積んで行き、終には、「絶対精神」「世界精神」に至る、というのがヘーゲルの「壮大な歴史物語」の骨子となっています。しかし、もし、これが史実とするならば、一体、誰がこれを知るのか。それはヘーゲル自身以外ではあり得ないと言うことになります。これはまさに、独りよがりの「理性の傲慢」であり「理性の暴走」以外の何ものでもありません。また、もし、この世界史が真実であるとするならば、人類の一人一人は、「生の意味」も何もわからず、自らの「意識の経験」(人生)を「絶対精神」「世界精神」の実現に捧げると言う、まさに「歴史の狡知」に翻弄される泡沫のような存在となってしまいます。ヘーゲルの世界史に於いては、人間の自由とか権利などと言うものは全く存在しないことになります。

 

ヘーゲルは「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」と言う自らの言葉に従って、自分が到達した「世界精神」という「理性的なもの」を現実のナポレオンに当てはめて、ナポレオンを世界精神の体現者と見なし、自説の正しさを検証しようとしました。しかし現実のナポレオンはヨーロッパ戦線で、諸国民の反発をかい、かえって侵略者となってしまい、ヘーゲルの検証は失敗しました。次に、ヘーゲルはその検証の対象をプロイセン王国に求めましたが、現実のプロイセン王国も進歩的な啓蒙運動を弾圧するような、世界精神の顕現とは程遠い存在でした。それで、結局、「理性的なものは現実的でなく、現実的なものは理性的でない」ということを自ら証明することになってしまいました。

 

ヘーゲルは、世界史を知る絶対者→世界精神→絶対精神→国家という理論の展開によって「絶対君主制」「全体主義」「独裁政治」等を正当化してしまいました。このようなヘーゲルの「理性の害毒」は当時のヨーロッパを汚染しただけではなく、その後も、世界中を汚染しました。(つづく)

理性の害悪(3)

理性の害悪を知るにはヨーロッパの理性(哲学・思想)の歴史とその理性による惨劇を明らかにしなければなりません。ヨーロッパの理性主義・主知主義の源流を辿れば、古代哲学の完成者といわれるギリシアのアリストテレスに行き着きます。アリストテレスは私たち人間の営為を、観照(テオリア)・実践(プラクシス)・制作(ポイエシス)に分け、それぞれ理論学(形而上学)・実践学(政治学・倫理学)・制作技術(アート)という学問分野を設定しました。そしてアリストテレスは観照・理論学すなわち理性を優位に置き、ヨーロッパを理性主義へと方向づけました(因みに日本は古来一貫して実践主義=「言挙げせぬ」「不立文字」)。しかし、ヨーロッパ中世における理性はキリスト教の神の存在証明に利用され、「スコラ哲学」を支えましたが、理性が表舞台に出ることはありませんでした。中世の終わりは、まさに「理性の復権」を意味しており、それはデカルトによってもたらされました。デカルトはまさに理性至上の「大陸合理論」(大陸=イギリスを除いたフランス、ドイツ、イタリア、その他)の元祖的存在でした。デカルトの主著『哲学原理』には次のような一文があります。

 

「自然の光、すなわち神から私たちに賦与された認識能力の捉える対象は、それが自然の光によって捉えられるかぎり、換言すれば、明晰判明に知覚するかぎり、ことごとく真である。」

 

この一文は、まさに神になりかわった人間、神の座に就いた人間を意味しており、神=「自然の光」=認識能力=理性という、人間の理性の絶対視を意味しています。これは「天賦人権説」そのものであり、後の「自然権」へと展開して行くことになります。

 

18世紀になると、人類の未来に決定的な悲劇をもたらす三人の哲学者、ルソー、ヘーゲルマルクスが登場します。

 

ルソーは、ヨーロッパの激動期を生き、フランス革命の思想に多大な影響を与えた哲学者でした。ルソーは「社会契約」の必要性を説き、その内容は「一般意志」という理念によって貫かれています。「一般意志」とは、私たちの内にある「公共の意志」を意味し、「利己の意志」である「特殊意志」の対立概念です。ルソーの社会契約説の骨子は、「一般意志としての個人」が、「一般意志としての公共の意志」と契約を結ぶことによって、社会(国家)の繁栄と秩序を確立すると共に、個人としての自由や権利を確保しようとするものです。しかし、よく考えてみると、「個人の一般意志」=「公共の一般意志」という「等式」は唯一ではなく複数あるということです。どのような社会(国家)にも保守と革新、右派と左派があり、現実には最低二つの一般意志があり、二つの等式があるということになります。従って、ここで、「理想的な」一つの等式を選ぶか、「現実的な」複数の等式を選ぶか、選択の問題が出て来ます。理性は常に理想を求めるものです、従って当然、唯一の等式を選ぶことになります。しかし、そこには重大な落とし穴が待ち受けています。それは「全体主義」という陥穽です。まさに、これこそ「理性の害悪」なのです。

 

ロベスピエールは、ルソーの思想を現実に落とし込もうとした政治家で、唯一の「個人の一般意志」=「公共の一般意志」という等式、すなわち「一般意志の一元化」によって理想的な社会(国家)=全体主義社会(国家)を目指しましたが、その具体的手法は、啓蒙と洗脳による「人間改造」と人間改造が不可能な場合には「粛正」でした。ロベスピエールは1794年に行った演説において、次のように言っています。

 

「人民政府の活力は、徳性と恐怖の双方である。徳性なくして恐怖は有害であり、恐怖なくして徳性は無力である」

 

因みに、ここで言っている「徳性」とは、革命政府が掲げる「一般意志」を理解し、それを自らの「一般意志」として、行動を共にすることであり、「恐怖」とはギロチンによる公開処刑を意味しています。ギロチンや絞首刑といった正式の処刑とそれ以外の処刑(私刑)による犠牲者は合計4万人以上と言われています。(つづく)

理性の害悪(2)

理性(知)は「一般」や「普遍」を追求するところにその使命があります。知識は一般的に普遍的に規定されて始めて真の知識となります。また、理性が一般的・普遍的でなければならないということは、理性は「客観的」でなければならないということを意味しています。一方、感情と意志(情意)は「個物」を個物たらしめるところにその意義があります。個物は一般的に普遍的に規定されるものではなく、三昧(純粋経験)という意識の「場」において「知的直観」によって規定されます(これは一種の自己規定)。両者の特徴は、理性が現実を理想に従えようとし、理想のために現実を無視または軽視しようとするのに対し、感情と意志は理想を現実に従えようとします。従って、知と情意は本来逆のベクトルを持っていて、知・情・意の統一(人格的統一)は容易ではないということになります。国際社会はここに来てにわかに騒々しくなって来ましたが、その底流には、知と情意の相克、即ち、グローバルズムという一般化とナショナリズムという個物化の相克があり、近年の傾向はグローバリズムに対するナショナリズムの反撃と解釈することが出来ます。

 

グローバリズムナショナリズムには、経済と政治の二つの側面あり、両者は複雑に絡んでいます。

 

経済的なグローバリゼーションとナショナリズムは次のように整理することが出来ます。

 

<経済的グローバリゼーション>

1、新自由主義

2、市場原理主義

3、国際分業主義

4、グローバル資本主義

5、規制緩和

6、地球環境保護

<経済的ナショナリズム

1、自給自足主義

2、自国中心主義

3、保護貿易主義

4、計画経済

5、資源外交

6、規制強化

 

政治的なナショナリズムグローバリズムの概念規定は容易ではありませんが、可能な限り単純化すると次のようになります。

 

<政治的グローバリズム世界市民主義)>

1、国際社会における基本単位は個人(人権)である。

2、個人は世界に帰属する。

3、平和は世界の精神的、社会的、政治的統一によって達成される。

<政治的ナショナリズム主権国家主義)>

1、国際社会における基本単位は主権国家である。

2、個人は国家に帰属する。

3、平和は各国の主権を尊重することによって達成される。

 

経済的なグローバリズムナショナリズムはともかくとして、「理性」が絡んだ政治的グローバリズムは非常に危険なものとなります。例えば、「慰安婦問題」について考えてみると、日本側は単純な政治的ナショナリズムの立場に立っていますが、韓国側はグローバリズムを利用した政治的ナショナリズムの立場に立っています。つまり韓国側は慰安婦問題を主権国家を超えたグローバルな人権問題・人道問題と捉え、世界中の「理性」を生業とする知識人、ジャーナリスト、弁護士、人権団体、学生、経済人等を巻き込んで日本に対峙しているのです。また、韓国側は、「東京裁判」にまで遡って、日本は「侵略国家」であるという文脈の中に慰安婦問題を「人道に対する罪」と位置づけ、元連合国の支持を取り付けようとしています。「日韓基本条約」の解釈にしても、日本側は、ナショナリズム(主権国家)の立場に立って、韓国は慰安婦への戦後補償を含めたすべての請求権を放棄したと解釈していますが、韓国側は「日韓基本条約」は主権国家間の条約であって、人権問題は主権国家を超えたグローバルな問題であるとして、慰安婦補償は「日韓基本条約」には含まれないという立場です。また、釜山の日本総領事館前に新たに設置された慰安婦像が新たな火種となっていますが、もし釜山市東区議会が設置許可の議決をすれば、国と地方との対立と言うことになり、日本の「沖縄問題」と同じ構図になります。国が強引に問題を解決しようとすると、「民主主義」(人権)に反することになり、かといって、そのまま放置すると法治国家としての統治能力が問われることになります。さらに、日本側は、慰安婦像の撤去を求める理由として、外国公館の安寧と尊厳を守ることを定めたウィーン条約に違反しているとしていますが、韓国側(民間団体)としては、条約とは主権国家間の取り決めであって、「人権問題」は主権国家を超えたグローバルな問題であるとして抵抗を続けるものと思われます。

 

人権グローバリズムは「理性主義」「主知主義」に基づいており、「理性主義」「主知主義」は「客観主義」に基づいています。「理性主義」は経済人・政治家・官僚等の所謂エスタブリッシュメント、「理性」を生業とする知識人、ジャーナリスト、弁護士、人権団体、学生、等の所謂リベラルに支えられて世界を席巻してきましたが、ここに来て様子が変わってきました。ISのテロ、ロシアのクリミア侵攻、中国の膨張、ヨーロッパの難民問題、イギリスのEU離脱、フィリピンの反米、北朝鮮の核開発、極めつきはアメリカのトランプ政権誕生です。これら動きはすべてショナリズムのグローバリズムに対する反撃と解することが出来ます。

 

嘗てのルネサンスは神に虐げられた人間の復興すなわち「人間復興(文芸復興は誤訳)」でしたが、これからの世界の動きは理性の「客観主義」に虐げられて来た主観の復興すなわち「主観復興」「情意復興」と解することが出来ます。これからの私たちには二つの途があります、「反理性」か、それとも「超理性」か。

理性の害悪(1)

「理性的でなければならない、感情的であってはならない」というのが私たちの常識になっています。しかしこの常識こそ私たち人間を滅亡へとミスリードする落とし穴となります。

 

毛沢東 7,800万人、スターリン 2,300万人、ヒトラー 1,700万人、ポル・ポト 170万人。彼らは理性的な人間であり、理性に徹したからこそ、冷徹にこれだけの大量虐殺をやってのけたのです。動物には理性はありません、従って、飢えを充たしたら、それ以上、他の動物を殺すことはありません。戦争による殺し合いは理性によって起こされるものです、動物にも縄張り争いはありますが、殺し合いに至ることは殆どありません。

 

人間の人間たる所以はまさにこの理性(言語・概念による論理的思考=理論理性)にありますが、私たちは理性の危険性を知り、限界を知り、理性を制御する術を知る必要があります。

 

仏教は慈悲(≧愛)という情・意(感情と意志=感情を伴った行為)を以て理性を制御することを説きます。しかし、ここで矛楯が生じてきます。それは、愛を「説く」と言うことは愛を「理性を以て」説く、愛を「理性に依って」説くと言うことであり、説かれたものは理性であって愛という情意ではないということになり、本末転倒と言うことになってしまいます。そこで仏教は「四十九年一字不説」(釈尊は悟りを得て入滅するまでの49年間、一言も説くことはなかった)と言って、自らこの矛楯を指摘し、言語による理性以外の方法によって説くことに注力します。

 

禅宗は「不立文字・教化別伝・直指人心・見性成仏」すなわち「言語に依らず、論理的な教えとは別に、人の心に直接訴えて、見性(悟り)に導く」、浄土真宗も「理性に依らず「信」(信じること)によって理性に頼らず、直接に愛と合一させしめる、ということを宗旨としています。

 

親鸞の『悪人正機説』すなわち〈善人なおもて往生をとぐ,いはんや悪人をや〉は、私たちの論理的思考を拒絶して、「信」によって一気に愛と合一することを要求しているのです。

 

同様に、禅の公案(問答)『一口吸尽西江水』は、仏とは・悟りとはという問に対して<汝が一口に西江の水を吸尽するを待ちて、即ち汝に向かいて言わん>(お前が大海の水を一口に飲み干してきたら教えてやろう)と答えることによて、「無分別」(非論理)と言うものを「飲み干すことができたならば」、無分別ということが「腑に落ちたならば」教えてやろうと説いています。物事の真の理解は、頭による論理的思考に依ってではなく、「腹」による全意識(人格=智・情・意)に依って可能となると説いています(智=知的直観)。私たち日本人は、「頭では理解できても、いまいち腑に落ちない」という「理解の本質」を知っている希有の民族と言うことが出来ます。日本人の多くは「私は無宗教」と自認していますが、「腑に落ちない」という微妙な意識を持っていると言うことは、立派な仏教徒であると言うことが出来ます。宗教は意識されている時は未だ宗教とは言えず、「無意識に意識される」ようになって始めて宗教が浸透しているということになります。

 

キリスト教の第一義は愛(アガペ)ですが、仏教の第一義は「智慧」で愛(慈悲)は第二義になります。仏教では智慧から愛(慈悲)が流出するのです。智慧とは悟りによって得られる無分別知であり、知るものと知られるものとが自己同一の知的直観(西田幾多郎)を意味しています。仏教は四大宗教の中で最も知的な宗教であると言われる理由はここにあります、仏教は単なる宗教ではなく「宗教哲学」なのです。

 

仏教は理性(分別知)に代わって、理性よりも高次の知である「般若」「無分別智」「知的直観」によって愛を説く宗教なのです。

 

「知的直観」について、西田幾多郎は次のように説明しています。

 

「知的直観とは知覚と同じく意識の最も統一した状態である、純粋経験(三昧)における統一作用そのものである、生命の捕捉である、すなわち技術の骨のようなものである。知的直観は主客合一、知意融合の状態である、物我相忘れ、ものが我を動かすのでもなく、我がものをうごかすのでもない、ただ一の世界である。(中略)宗教的覚悟(悟り)とは思惟(理性)に基づいた抽象的知識でもなく、また単に盲目的感情でもない、知識および意志の根底に横たわる深遠な統一を自得するのである、すなわち一種の知的直観である。」(善の研究・第一編・第四章・知的直観)(括弧内は筆者加筆)

 

西田哲学とは知的直観(悟り)を原理とした宗教哲学なのです。従って、西田哲学を理解するには悟り(覚悟・自覚)という体験が必要となります。西田は自らの哲学が理解されないことについて、次のように愚痴をこぼしています。

 

「抽象的論理の立場からは、具体的なるものは考えられないのである。しかし私の論理と言うのは学会からは理解せられない、否未だに一顧も与えられないと言ってよいのである。」(『私の論理について(絶筆)』西田幾多郎全集第十二巻 P265

 

理性の危険性を知る仏教は、理性に代えて知的直観(般若)をもって慈悲(≧愛)を説き、人格の根柢に愛を据えて、倫理を説いているのです(悟りの証明58参照)。

悟りの証明(58)

嘗て「何故人を殺してはいけないのか?」という単刀直入の問に対して、大江健三郎吉本隆明等の所謂知識人は、理窟を捏ね回しているだけで、明確な答えを出すことが出来ませんでした。実際の倫理的判断には時間的猶予はありません、即座に判断し行動しなければなりません。答えは単純です。

 

「人格に背くから悪である、人格は愛(慈愛)で成り立っている。」

「善悪の判断に迷うことがあれば、愛があるかと自問すればよい。」

 

これ以上の答えはないはずです。人は法律を犯したから罰を受けるのではありません、人格を犯したから罰を受けるのです。法律は最低限のルールに過ぎません。なぜ桝添元都知事が失脚したかを考えればわかることです。彼も所謂知識人で、法に触れるようなことはしていないと主張しましたが、世論は許しませんでした。都民としては、悪いことはしない普通のことを期待したのではなく、善いことをする「人格者」を期待したのです。

 

三島由紀夫は所謂知識人(リベラル)のことを「主体なき理性」と言って揶揄しました。知識人には情・意が欠落した人間失格者が多いのです。

 

倫理問題は情と意の問題であって、頭で論理的に考え、知を尽くしたからといって、答えが出て来るものではありません。真に理性的な人は理性の限界を知り、その使い方を心得ている人です。