悟りの証明

残日録

理性の害悪(3)

理性の害悪を知るにはヨーロッパの理性(哲学・思想)の歴史とその理性による惨劇を明らかにしなければなりません。ヨーロッパの理性主義・主知主義の源流を辿れば、古代哲学の完成者といわれるギリシアのアリストテレスに行き着きます。アリストテレスは私たち人間の営為を、観照(テオリア)・実践(プラクシス)・制作(ポイエシス)に分け、それぞれ理論学(形而上学)・実践学(政治学・倫理学)・制作技術(アート)という学問分野を設定しました。そしてアリストテレスは観照・理論学すなわち理性を優位に置き、ヨーロッパを理性主義へと方向づけました(因みに日本は古来一貫して実践主義=「言挙げせぬ」「不立文字」)。しかし、ヨーロッパ中世における理性はキリスト教の神の存在証明に利用され、「スコラ哲学」を支えましたが、理性が表舞台に出ることはありませんでした。中世の終わりは、まさに「理性の復権」を意味しており、それはデカルトによってもたらされました。デカルトはまさに理性至上の「大陸合理論」(大陸=イギリスを除いたフランス、ドイツ、イタリア、その他)の元祖的存在でした。デカルトの主著『哲学原理』には次のような一文があります。

 

「自然の光、すなわち神から私たちに賦与された認識能力の捉える対象は、それが自然の光によって捉えられるかぎり、換言すれば、明晰判明に知覚するかぎり、ことごとく真である。」

 

この一文は、まさに神になりかわった人間、神の座に就いた人間を意味しており、神=「自然の光」=認識能力=理性という、人間の理性の絶対視を意味しています。これは「天賦人権説」そのものであり、後の「自然権」へと展開して行くことになります。

 

18世紀になると、人類の未来に決定的な悲劇をもたらす三人の哲学者、ルソー、ヘーゲルマルクスが登場します。

 

ルソーは、ヨーロッパの激動期を生き、フランス革命の思想に多大な影響を与えた哲学者でした。ルソーは「社会契約」の必要性を説き、その内容は「一般意志」という理念によって貫かれています。「一般意志」とは、私たちの内にある「公共の意志」を意味し、「利己の意志」である「特殊意志」の対立概念です。ルソーの社会契約説の骨子は、「一般意志としての個人」が、「一般意志としての公共の意志」と契約を結ぶことによって、社会(国家)の繁栄と秩序を確立すると共に、個人としての自由や権利を確保しようとするものです。しかし、よく考えてみると、「個人の一般意志」=「公共の一般意志」という「等式」は唯一ではなく複数あるということです。どのような社会(国家)にも保守と革新、右派と左派があり、現実には最低二つの一般意志があり、二つの等式があるということになります。従って、ここで、「理想的な」一つの等式を選ぶか、「現実的な」複数の等式を選ぶか、選択の問題が出て来ます。理性は常に理想を求めるものです、従って当然、唯一の等式を選ぶことになります。しかし、そこには重大な落とし穴が待ち受けています。それは「全体主義」という陥穽です。まさに、これこそ「理性の害悪」なのです。

 

ロベスピエールは、ルソーの思想を現実に落とし込もうとした政治家で、唯一の「個人の一般意志」=「公共の一般意志」という等式、すなわち「一般意志の一元化」によって理想的な社会(国家)=全体主義社会(国家)を目指しましたが、その具体的手法は、啓蒙と洗脳による「人間改造」と人間改造が不可能な場合には「粛正」でした。ロベスピエールは1794年に行った演説において、次のように言っています。

 

「人民政府の活力は、徳性と恐怖の双方である。徳性なくして恐怖は有害であり、恐怖なくして徳性は無力である」

 

因みに、ここで言っている「徳性」とは、革命政府が掲げる「一般意志」を理解し、それを自らの「一般意志」として、行動を共にすることであり、「恐怖」とはギロチンによる公開処刑を意味しています。ギロチンや絞首刑といった正式の処刑とそれ以外の処刑(私刑)による犠牲者は合計4万人以上と言われています。(つづく)

理性の害悪(2)

理性(知)は「一般」や「普遍」を追求するところにその使命があります。知識は一般的に普遍的に規定されて始めて真の知識となります。また、理性が一般的・普遍的でなければならないということは、理性は「客観的」でなければならないということを意味しています。一方、感情と意志(情意)は「個物」を個物たらしめるところにその意義があります。個物は一般的に普遍的に規定されるものではなく、三昧(純粋経験)という意識の「場」において「知的直観」によって規定されます(これは一種の自己規定)。両者の特徴は、理性が現実を理想に従えようとし、理想のために現実を無視または軽視しようとするのに対し、感情と意志は理想を現実に従えようとします。従って、知と情意は本来逆のベクトルを持っていて、知・情・意の統一(人格的統一)は容易ではないということになります。国際社会はここに来てにわかに騒々しくなって来ましたが、その底流には、知と情意の相克、即ち、グローバルズムという一般化とナショナリズムという個物化の相克があり、近年の傾向はグローバリズムに対するナショナリズムの反撃と解釈することが出来ます。

 

グローバリズムナショナリズムには、経済と政治の二つの側面あり、両者は複雑に絡んでいます。

 

経済的なグローバリゼーションとナショナリズムは次のように整理することが出来ます。

 

<経済的グローバリゼーション>

1、新自由主義

2、市場原理主義

3、国際分業主義

4、グローバル資本主義

5、規制緩和

6、地球環境保護

<経済的ナショナリズム

1、自給自足主義

2、自国中心主義

3、保護貿易主義

4、計画経済

5、資源外交

6、規制強化

 

政治的なナショナリズムグローバリズムの概念規定は容易ではありませんが、可能な限り単純化すると次のようになります。

 

<政治的グローバリズム世界市民主義)>

1、国際社会における基本単位は個人(人権)である。

2、個人は世界に帰属する。

3、平和は世界の精神的、社会的、政治的統一によって達成される。

<政治的ナショナリズム主権国家主義)>

1、国際社会における基本単位は主権国家である。

2、個人は国家に帰属する。

3、平和は各国の主権を尊重することによって達成される。

 

経済的なグローバリズムナショナリズムはともかくとして、「理性」が絡んだ政治的グローバリズムは非常に危険なものとなります。例えば、「慰安婦問題」について考えてみると、日本側は単純な政治的ナショナリズムの立場に立っていますが、韓国側はグローバリズムを利用した政治的ナショナリズムの立場に立っています。つまり韓国側は慰安婦問題を主権国家を超えたグローバルな人権問題・人道問題と捉え、世界中の「理性」を生業とする知識人、ジャーナリスト、弁護士、人権団体、学生、経済人等を巻き込んで日本に対峙しているのです。また、韓国側は、「東京裁判」にまで遡って、日本は「侵略国家」であるという文脈の中に慰安婦問題を「人道に対する罪」と位置づけ、元連合国の支持を取り付けようとしています。「日韓基本条約」の解釈にしても、日本側は、ナショナリズム(主権国家)の立場に立って、韓国は慰安婦への戦後補償を含めたすべての請求権を放棄したと解釈していますが、韓国側は「日韓基本条約」は主権国家間の条約であって、人権問題は主権国家を超えたグローバルな問題であるとして、慰安婦補償は「日韓基本条約」には含まれないという立場です。また、釜山の日本総領事館前に新たに設置された慰安婦像が新たな火種となっていますが、もし釜山市東区議会が設置許可の議決をすれば、国と地方との対立と言うことになり、日本の「沖縄問題」と同じ構図になります。国が強引に問題を解決しようとすると、「民主主義」(人権)に反することになり、かといって、そのまま放置すると法治国家としての統治能力が問われることになります。さらに、日本側は、慰安婦像の撤去を求める理由として、外国公館の安寧と尊厳を守ることを定めたウィーン条約に違反しているとしていますが、韓国側(民間団体)としては、条約とは主権国家間の取り決めであって、「人権問題」は主権国家を超えたグローバルな問題であるとして抵抗を続けるものと思われます。

 

人権グローバリズムは「理性主義」「主知主義」に基づいており、「理性主義」「主知主義」は「客観主義」に基づいています。「理性主義」は経済人・政治家・官僚等の所謂エスタブリッシュメント、「理性」を生業とする知識人、ジャーナリスト、弁護士、人権団体、学生、等の所謂リベラルに支えられて世界を席巻してきましたが、ここに来て様子が変わってきました。ISのテロ、ロシアのクリミア侵攻、中国の膨張、ヨーロッパの難民問題、イギリスのEU離脱、フィリピンの反米、北朝鮮の核開発、極めつきはアメリカのトランプ政権誕生です。これら動きはすべてショナリズムのグローバリズムに対する反撃と解することが出来ます。

 

嘗てのルネサンスは神に虐げられた人間の復興すなわち「人間復興(文芸復興は誤訳)」でしたが、これからの世界の動きは理性の「客観主義」に虐げられて来た主観の復興すなわち「主観復興」「情意復興」と解することが出来ます。これからの私たちには二つの途があります、「反理性」か、それとも「超理性」か。

理性の害悪(1)

「理性的でなければならない、感情的であってはならない」というのが私たちの常識になっています。しかしこの常識こそ私たち人間を滅亡へとミスリードする落とし穴となります。

 

毛沢東 7,800万人、スターリン 2,300万人、ヒトラー 1,700万人、ポル・ポト 170万人。彼らは理性的な人間であり、理性に徹したからこそ、冷徹にこれだけの大量虐殺をやってのけたのです。動物には理性はありません、従って、飢えを充たしたら、それ以上、他の動物を殺すことはありません。戦争による殺し合いは理性によって起こされるものです、動物にも縄張り争いはありますが、殺し合いに至ることは殆どありません。

 

人間の人間たる所以はまさにこの理性(言語・概念による論理的思考=理論理性)にありますが、私たちは理性の危険性を知り、限界を知り、理性を制御する術を知る必要があります。

 

仏教は慈悲(≧愛)という情・意(感情と意志=感情を伴った行為)を以て理性を制御することを説きます。しかし、ここで矛楯が生じてきます。それは、愛を「説く」と言うことは愛を「理性を以て」説く、愛を「理性に依って」説くと言うことであり、説かれたものは理性であって愛という情意ではないということになり、本末転倒と言うことになってしまいます。そこで仏教は「四十九年一字不説」(釈尊は悟りを得て入滅するまでの49年間、一言も説くことはなかった)と言って、自らこの矛楯を指摘し、言語による理性以外の方法によって説くことに注力します。

 

禅宗は「不立文字・教化別伝・直指人心・見性成仏」すなわち「言語に依らず、論理的な教えとは別に、人の心に直接訴えて、見性(悟り)に導く」、浄土真宗も「理性に依らず「信」(信じること)によって理性に頼らず、直接に愛と合一させしめる、ということを宗旨としています。

 

親鸞の『悪人正機説』すなわち〈善人なおもて往生をとぐ,いはんや悪人をや〉は、私たちの論理的思考を拒絶して、「信」によって一気に愛と合一することを要求しているのです。

 

同様に、禅の公案(問答)『一口吸尽西江水』は、仏とは・悟りとはという問に対して<汝が一口に西江の水を吸尽するを待ちて、即ち汝に向かいて言わん>(お前が大海の水を一口に飲み干してきたら教えてやろう)と答えることによて、「無分別」(非論理)と言うものを「飲み干すことができたならば」、無分別ということが「腑に落ちたならば」教えてやろうと説いています。物事の真の理解は、頭による論理的思考に依ってではなく、「腹」による全意識(人格=智・情・意)に依って可能となると説いています(智=知的直観)。私たち日本人は、「頭では理解できても、いまいち腑に落ちない」という「理解の本質」を知っている希有の民族と言うことが出来ます。日本人の多くは「私は無宗教」と自認していますが、「腑に落ちない」という微妙な意識を持っていると言うことは、立派な仏教徒であると言うことが出来ます。宗教は意識されている時は未だ宗教とは言えず、「無意識に意識される」ようになって始めて宗教が浸透しているということになります。

 

キリスト教の第一義は愛(アガペ)ですが、仏教の第一義は「智慧」で愛(慈悲)は第二義になります。仏教では智慧から愛(慈悲)が流出するのです。智慧とは悟りによって得られる無分別知であり、知るものと知られるものとが自己同一の知的直観(西田幾多郎)を意味しています。仏教は四大宗教の中で最も知的な宗教であると言われる理由はここにあります、仏教は単なる宗教ではなく「宗教哲学」なのです。

 

仏教は理性(分別知)に代わって、理性よりも高次の知である「般若」「無分別智」「知的直観」によって愛を説く宗教なのです。

 

「知的直観」について、西田幾多郎は次のように説明しています。

 

「知的直観とは知覚と同じく意識の最も統一した状態である、純粋経験(三昧)における統一作用そのものである、生命の捕捉である、すなわち技術の骨のようなものである。知的直観は主客合一、知意融合の状態である、物我相忘れ、ものが我を動かすのでもなく、我がものをうごかすのでもない、ただ一の世界である。(中略)宗教的覚悟(悟り)とは思惟(理性)に基づいた抽象的知識でもなく、また単に盲目的感情でもない、知識および意志の根底に横たわる深遠な統一を自得するのである、すなわち一種の知的直観である。」(善の研究・第一編・第四章・知的直観)(括弧内は筆者加筆)

 

西田哲学とは知的直観(悟り)を原理とした宗教哲学なのです。従って、西田哲学を理解するには悟り(覚悟・自覚)という体験が必要となります。西田は自らの哲学が理解されないことについて、次のように愚痴をこぼしています。

 

「抽象的論理の立場からは、具体的なるものは考えられないのである。しかし私の論理と言うのは学会からは理解せられない、否未だに一顧も与えられないと言ってよいのである。」(『私の論理について(絶筆)』西田幾多郎全集第十二巻 P265

 

理性の危険性を知る仏教は、理性に代えて知的直観(般若)をもって慈悲(≧愛)を説き、人格の根柢に愛を据えて、倫理を説いているのです(悟りの証明58参照)。

悟りの証明(58)

嘗て「何故人を殺してはいけないのか?」という単刀直入の問に対して、大江健三郎吉本隆明等の所謂知識人は、理窟を捏ね回しているだけで、明確な答えを出すことが出来ませんでした。実際の倫理的判断には時間的猶予はありません、即座に判断し行動しなければなりません。答えは単純です。

 

「人格に背くから悪である、人格は愛(慈愛)で成り立っている。」

「善悪の判断に迷うことがあれば、愛があるかと自問すればよい。」

 

これ以上の答えはないはずです。人は法律を犯したから罰を受けるのではありません、人格を犯したから罰を受けるのです。法律は最低限のルールに過ぎません。なぜ桝添元都知事が失脚したかを考えればわかることです。彼も所謂知識人で、法に触れるようなことはしていないと主張しましたが、世論は許しませんでした。都民としては、悪いことはしない普通のことを期待したのではなく、善いことをする「人格者」を期待したのです。

 

三島由紀夫は所謂知識人(リベラル)のことを「主体なき理性」と言って揶揄しました。知識人には情・意が欠落した人間失格者が多いのです。

 

倫理問題は情と意の問題であって、頭で論理的に考え、知を尽くしたからといって、答えが出て来るものではありません。真に理性的な人は理性の限界を知り、その使い方を心得ている人です。

悟りの証明(57)

「なぜ人を殺してはいけないの?」

この問いは、1997年8月15日、 故筑紫哲也がキャスターを務めたテレビ番組『ニュース23』が企画・放映した「ぼくたちの戦争’97」という特集コーナーで、高校生たちが大人たちと討論する中、ある高校生がこの問いを投げかけ、さらに「自分は死刑になりたくないからという理由しか思い当たらない」のですが、と続けています。この生徒は大人からの本当の答えがほしかったのです、大人達に救いを求めていたのです。

しかし、キャスターの筑紫哲也はもとより、ゲストとして同席していた大江健三郎、その他の所謂知識人達も、誰一人、答えることができなかったのです。

同年、朝日新聞大江健三郎の「誇り、ユーモア、想像力」と題されたコメントが掲載されました。(朝日新聞 1997.11.30 朝刊)

「テレビの討論番組で、どうして人を殺してはいけないのかと若者が問いかけ、同席した知識人たちは直接、問いには答えなかった。(中略)私はむしろ、この質問に問題があると思う。まともな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ。そこにいた誰も、右往左往するばかりで、まともに答えられなかったのだ。あれだけの知識人がそろっているのに、子供の質問にすらまともに答えられないのかと、世間は嘲笑した。そのようにいう根拠を示せといわれるなら、私は戦時の幼少年時についての記憶や、知的な障害児と健
常な子どもを育てた家庭での観察にたって知っていると答えたいなぜなら、性格の良し悪しとか、頭の鋭さとかは無関係に、子どもは幼いなりに固有の誇りを持っているから。。(中略)人を殺さないということ自体に意味がある。どうしてと問うのは、その直観にさからう無意味な行為で、誇りのある人間のすることじゃないと子どもは思っているだろう。こういう言葉こそ使わないにしても。そして人生の月日をかさねることは、最初の直観を経験によって充実させてゆくことだったと、大人ならばしみじみと思い当たる日があるものだ。」

これは、無慈悲に生徒をなじいるだけではなく、知識人としてはあるまじき「直観」を持ち出してくるとは、全く、人間失格であり、知識人失格と断罪ぜざるを得ません。

「なぜ人を殺してはいけないの?」という問を出した生徒は、一体、何を問うていたのでしょうか。この生徒がコトバに表せない本当の問は何だったのでしょうか。
この生徒は「自分は死刑になりたくないからという理由しか思い当たらない」ということを知っているのです。つまり、私たち「人間社会の秩序を維持」するために、「殺してはいけない」ということぐらいのことは知っていると主張した上で、この生徒は、人間の尊厳を賭けて、実存を賭けて、自分自身で「殺してはいけない」本源的な理由を知りたかったのです。言い換えれば、「主体なき理性」で単に知識として知るだけではなく、「主体ある理性」すなわち意志と感情を伴った全人格を賭して知りたかったのです。

この生徒の切なる問いに答えるには、「一体、私たちに自由はあるのか?」という根本的な問いに答えなければなりません。自由がないところに倫理は成立しません、自然必然の法則に従って生きるだけなら、善悪を問うことはできません。この自然のルール(自然の摂理)に加えて、社会のルール、人間のルールに従うこということになれば、そこには私たちの自由は全くありません。

仏教は「人間の自由」について、既に2500年前に単純明確に答えを出しています。

「私たちの自由とは、自然必然の法則を無視して勝手に生きることではない、生きられるはずもない、むしろ、自然必然の法則に則り、自らのものとして、積極的に自然必然を活用する、すなわち<使然>の立場に立てば自由である。」

「また、社会からの自由を求めるならば、<人知>を客観視し、<人知の専横>を許さないことである。知は真偽、情は美醜、意は善悪というそれぞれの領分かある。<人知>は分別知であり、相対知であり、<関係知>である。関係の中に住む以上自由はない。」

「善悪は<人知>の産物である。善も悪もない世界、それが三昧の世界である。三昧には<自然の知=無知の知>と意志と感情とがある。三昧とはただ物事に<感情移入>し、物事と一つになることである、物事と一致するとき、そこに「慈悲>愛」が現成する。慈悲あるところに悪がある筈がない。善悪に苦しむより、三昧を楽しむことである。」

現代の最大の問題は<知の情意に対する越権><主体なき理性の専横><知の全体主義>なのです。大江健三郎その他の所謂知識人の存在そのものが悪なのです。若者達はこの<知の全体主義>の中で圧死寸前なのです。若者達をこの息苦しい(生き苦しい)世界から救出するには、単純に<感情移入>の骨を伝授することです。<感情移入>とは決して知識ではなく、行為であり、行動であり、体験なのです。<感情移入>のあるところには決して悪はありません、倫理判断に迷うこともありません。若者をして、何事にも<感情移入>ができる自分に、自分自身が仕立て上げられるうように、私たちは大人は、無言で寄り添いながら、機会を与えればいいのです。(つづく)

悟りの証明(56)

安全保障、集団的自衛権憲法改正、沖縄米軍基地、尖閣諸島南シナ海イスラム国、米大統領選、北朝鮮慰安婦原発TPP八重洲移転、オリンピック、その他諸々の事件・事故、これら一切の問題(イシュー)は最終的に「人格問題」「倫理問題」「善か悪か」という問題に帰着します。私たちは、これら諸問題解決のために、誰しもが「感情的」であってはならない「理性的」に対処しなければならないと固く信じています。しかし、真の問題はこの常識的な「理性崇拝」にあります。私たちが理性を崇拝するとき、理性を越えてもう一歩先に進むという努力を怠ってしまうのです、つまり「理性オタク」に陥ってしまうのです。このブログで批判してきた吉本隆明大江健三郎は「理性オタク」の教祖的存在なのです。私たちが「人格」を考える時、彼らはまさに「反面教師」なのです。

 

私たちは皆程度の差こそあれ「理性オタク」であることに違いはありません。私たちは、鳥のように地を離れ空を舞って、山を俯瞰するように世界を見ているのです。私たちはこちら側にいて、あちら側に世界を見ているのです、つまり「傍観」しているのです。このような「理性的な私」「考える私」では決してリアルの世界、現実の世界を知ることは出来ません。私たちはリアルな世界に包まれているのです、私たちは現実の世界の中に生まれ・ハタラキ・死んでいくのです。「私が走っているる」と考えることと「実際に私が走っている」こととは違います、私が実際に走れば、地を蹴る時に地からの反作用があり、風を切る時に空気の抵抗があり、息が弾むのです。私の作用に対して必ず反作用というものがあります、これが現実の世界です。

 

そこで、どうしたら単なる「理性オタク」から脱することが出来るか、脱して何処へ行くのかということが問題になってきますが、それは、吉本や大江の対極にある三島由紀夫の次の一文を見れば明らかになってきます。

 

「文化は、ぎりぎりの形態に於いては、創造し保持し破壊するブラフマン・ヴイシュヌ・シヴァのヒンズー三神の三位一体のような主体性においてのみ発現するものである。これについて、かって戦時中、丹羽文雄氏の『海戦』を批評して、海戦の最中これを記録するためにメモをとりつづけるよりも、むしろ弾丸運びを手伝ったほうが真の文学者の取るべき態度だと言った蓮田義明氏の一見矯激な考えには、深く再考すべきものが含まれている。それが証拠に、戦後ただちに海軍の暴露的小説『篠竹』を書いた丹羽氏は当時の氏の本質は精巧なカメラであって、主体なき客観性に依拠していたことを自ら証明したからである。」 (『文化防衛論』P47)(下線は筆者)

 

「メモをとる」「精巧なカメラ」とは理性を意味し、しかもこの理性は「主体なき理性」として否定的に見られているのに対し、「弾丸運びをする」とは「行動」を意味し、肯定的に表現されていることが分かります。要は、物事(世界)を外側から見るのでは物事の真相(リアリティ)は掴めない、内側から見なくてはならない、内側から見るには行動する以外にはないと言っているのです。

 

私たちが人格的であるためには、単なる「考える私」から「行動する私」へ、まさにこのことが私たちに問われているのです。「主体ある理性」すなわち知・情・意三位一体となった人格は「行動する私」に於いてはじめて発現します。

 

神道では「言挙げせぬ」、仏教では「不立文字」と言い、言語(ことば)を使ってものを考えることを否定して来ました、つまり理性を否定して来ました。これが日本の伝統でした、寡黙が美徳でした。(つづく)

 

 

悟りの証明(55)

西田幾多郎仏教の「即非の論理」に基づいて「絶対矛盾的自己同一の論理」を「西洋の倫理」とは全く別の日本独自の論理として確立しようとしました。しかし、西田は『絶筆』において次のように述べています。

 

「抽象的論理の立場からは、具体的なるものは考えられないのである。しかし私の論理と言うのは学会からは理解せられない、否未だに一顧も与えられないと言ってよいのである。」『私の論理について(絶筆)』(西田幾多郎全集第十二巻 P265)

 

西田哲学を理解するにはその原理である「自覚=悟り」を理解しなければなりませんが、その「自覚」を理解することで、どのような御利益があるかと言えば、単純に、私たち人間にいとって最も重要なものが「愛(慈悲)」であると言うことがわかり、更に、その愛が私たちの人格を形成しているということがわかって来ます。私たちの人生の意義は愛を以てこの世界に接すること以外にないということが分かります。

仏教の使命は「抜苦・与楽」ですが、苦を取り除くのも愛、楽を与えるのも愛ということになります。

 

先にも触れましたが、「なぜ人を殺してはいけないの?」という私たち人間の根源的な問に対して、仏教は単純明快に「それは人格に悖る(反する)からである」と答え、加えて「愛がないからだ」と答えます。私たちは法律に背くが故に罰を受けるのではありません、人格に背くが故に罰を受けるのです。罪人は例え法の目をくぐりおおせたにせよ、自らの罪の意識から逃げることはできません。

 

私たちの日常は、深く考えることはなくても、常に、これはやるべきである、あれはやるべきでない、と一々判断しながら行動しているはずです。もし、その判断に迷うことがあれば、そこに「愛」があるかどうかを自問すれば、判断を誤ることはありません。

 

私たちが人と会って話をしている時、当然、話を理解し合い、心を通わせているのですが、それとは別に、無意識のうちに、話し相手の「人格」を見ている筈です。勿論話の中にも人格は窺えますが、話以外に、顔の表情、服装、身振り手振り、グルーミングの状態、その人の全体としての雰囲気等を一瞬のうちに見て取っている筈です。

 

私たちの日常は情報で溢れています。私たちの関心は事件・事故の原因です。事件・事故は人が起こすものなので、結局、事件・事故を起こした人間の人格に関心があると言うことになります。

 

私たち人間にとって最も関心があるものは何かといえば、それは他の人すなわち他人なのです。何故他人なのか。それは「他人を在らしめることによって、はじめて自分を在らしめることが出来る」からです。「他人を在らしめる」「他人を知る」ためには主観(自分)を取り除き、客観(他人)に徹しなければなりなせん。自分を取り除くとは無我になると言うことです。無我になるとは私というものがなくなって、「在らしめようとするハタラキだけになる」「知ろうとするハタラキだけになる」と言うことです、誰のハタラキでもない、ただハタラキだけになるのです。そして、その「ただハタラクだけ」こそが真の我(私)であるということが分かることが、とりもなおさず「自覚」すなわち「悟り」なのです。我が知るのではない、我が在らしめるのではない、知るというハタラキ、在らしめるというハタラキが我なのです。悟りの証明(32)で述べたように、「円朝がハイハイではなく、ハイハイが円朝」なのです。私というものが存在して、その私が知ったり行動したりするのではないのです。そのような超越的な私は存在しないのです。私たちが常日頃私と思っている私は幻想にすぎないのです。私とは「自己幻想」なのです。因みに、吉本隆明は「国家共同幻想」を語りましたが、それ以前に「自己幻想」があるのです。「自己幻想」を前提として「国家共同幻想」を語っても屋上屋となるだけで、全く意味のないことです。「私」という「自己幻想」をもって生きている人の世を仏教では「浮世」と言います。

 

「無我になる」には余程の修行がいると思われるかも知れませんが、実際は、日常生活に於いて無我で過ごす時間の方が長いのです、「三昧でいる時間」の方が長いのです。無我に於いて、忘我において行動している時間の方が長いのです。三昧でいる時は自ずと「感情移入」「人格移入」がハタライテいます、道元禅師の表現を借りれば自ずと「心身を挙して」という状態になります。

 

無我に於いて他我を在らしめようとすること、無我に於いて他我を知ろうとすることは、他我と一致しようとする努力です、他我と一致しようとする努力が「愛」と言うことに他なりません。

 

(私たちが)この世に愛をもって接する時、この世は一変します、すなわち「浄土」になるのです。仏教で言う「浄土」は決してあの世ではないのです、死後の世界ではないのです。人間に対してだけではなく、一木一草に至るまで、愛をもって接する時、この世は愛をもって応えてくれます。この世は客観的に存在するのではありません。この世とは「自己の反映」なのです。(つづく)