悟りの証明

残日録

悟りの証明(139)

 

チャットGPTとはどのようなものなのか、その能力を知るためにGoogle のBardとチャトをしてみました。なかなか面白くてやみつきになりそうです。

 

私:

哲学者フイヒテの事行Tathandlungとは

 

Bard:

哲学者フイヒテの事行Tathandlungとは、自我が自己自身を定立する行為そのものである。フィヒテは、意識の根底には、理性の法則によって規定される経験的意識ではなく、理性の法則を自ら創造する自由意志の行為があると考えた。この行為こそが、事行である。

フィヒテは、事行を「端的に無制約的な第一原則」と呼び、これを「自我は根源的に端的に自己自身の存在を措定する」という命題で表現した。この命題は、自我は自己自身を存在として定立する行為であり、その行為によって自己自身が存在するということを意味する。

事行は、意識の根底にあるものであり、経験的な意識によって直接的に把握することはできない。しかし、事行は、経験的な意識を可能にする根源的な条件である。事行によって、自我は自己自身を意識し、世界を認識することができる。

事行は、フィヒテの哲学の中心的な概念であり、彼の観念論の基礎となっている。フィヒテは、事行によって、自我の自由意志を強調し、人間の主体性を確立しようとした。

事行の具体的な例としては、以下のような行為が挙げられる。

  • 何かを認識する行為
  • 何かを判断する行為
  • 何かを意志する行為
  • 何かを創造する行為

これらの行為は、すべて自我が自己自身を定立する行為である。自我は、これらの行為によって、自己自身を意識し、世界を認識し、自己の存在を創造していく。

 

私:

日本の禅の「般若」はフイヒテの事行に相当すると思いますが

 

Bard:

はい、日本の禅の「般若」は、フイヒテの事行に相当すると考えられます。

般若とは、仏教の智慧の概念であり、真理を悟ること、悟りの境地のことを指します。般若の悟りを得た者は、一切の存在の差異を超越し、絶対的な真理を把握することができるとされます。

事行とは、自我が自己自身を定立する行為そのものであり、意識の根底にある自由意志の行為です。事行によって、自我は自己自身を意識し、世界を認識することができます。

般若と事行は、いずれも自我の自由意志と主体性を強調する点で共通しています。般若の悟りを得た者は、一切の差異を超越し、絶対的な自由を得ることになります。事行によって、自我は自己自身を定立し、自己の存在を創造していくことができます。

具体的には、般若と事行の共通点は以下の通りです。

  • いずれも自我の自由意志と主体性を強調する
  • いずれも意識の根底にある
  • いずれも絶対的な真理を追求する

ただし、般若と事行には、いくつかの相違点もあります。

  • 般若は、仏教の智慧の概念であり、事行は、哲学の概念である
  • 般若は、悟りの境地を指すのに対し、事行は、行為そのものを指す

それでも、般若と事行は、いずれも人間の精神的な高みを目指すものであり、共通する部分も多いと言えるでしょう。

 

私:

境地という言葉は禅を理解しないごまかしの曖昧な概念なので、西田幾多郎によれば般若も事行も「知るものが知られるものであり、知られるものが知るものである(自知、自己同一知)という動的な知であると言っていますが

 

Bard:

西田幾多郎は、般若と事行を、知るものと知られるものの関係として捉えました。知るものが知られるものであり、知られるものが知るものであるという関係は、自己同一性を意味します。

般若の悟りを得た者は、一切の差異を超越し、絶対的な真理を把握することになります。このとき、知るものと知られるものの区別は消え去り、自己同一性が実現します。

事行によって、自我は自己自身を定立し、自己の存在を創造していくことができます。このときも、知るものと知られるものの区別は消え去り、自己同一性が実現します。

西田幾多郎は、般若と事行を、自己同一性を実現する動的な知として捉えたのです。

「境地」という言葉は、禅を理解しないごまかしの曖昧な概念であるとの指摘は、ある意味、正しいと言えるでしょう。般若や事行の悟りは、単なる境地ではなく、自己同一性を実現する実践的な知であるからです。

西田幾多郎は、般若と事行を、以下のように表現しています。

般若は、知る主体と知られる客体とを区別する二元論を超越する、自己同一知である。

事行は、知る主体と知られる客体とを区別する二元論を超越する、自己同一知の実現である。

この表現は、般若と事行が、自己同一性を実現する動的な知であることを明確に示しています。

 

 

私:

西田幾多郎は私達の知を、直感、思惟、自覚という三種に分類しています。事行は自覚に相当します

 

Bard:

はい、西田幾多郎は、私達の知を、直感、思惟、自覚という三種に分類しています。

直感とは、対象を直接的に把握する知であり、思惟とは、対象を概念によって把握する知です。自覚とは、知る主体と知られる対象とが同一であるという知です。

事行は、自我が自己自身を定立する行為そのものであり、意識の根底にある自由意志の行為です。事行によって、自我は自己自身を意識し、世界を認識することができます。

西田幾多郎は、事行を自覚に相当すると考えました。その理由は、以下のとおりです。

  • 事行は、知る主体と知られる対象とが同一であるという関係を内包している。
  • 事行は、知る主体が自己自身を意識する行為である。

事行によって、自我は自己自身を定立し、自己の存在を創造していくことができます。このとき、知るものと知られるものの区別は消え去り、自己同一性が実現します。

つまり、事行によって、自我は自己自身を意識する行為である自覚が実現されると考えられます。

ただし、西田幾多郎の知の三種の分類は、必ずしも明確なものではありません。直感と自覚は、どちらも知る主体と知られる対象とが同一であるという関係を内包しているため、区別が難しい場合もあります。

また、事行は、知る主体が自己自身を意識する行為であると同時に、世界を認識する行為でもあります。そのため、自覚と思惟の両方に相当すると考えることもできます。

このように、事行が自覚に相当するかどうかは、西田幾多郎の知の三種の分類の解釈次第であると言えるでしょう。

 

私:

西田によれば私達の知はいずれも「反省することである」といっています。直感と自覚の違いは、直感は単なる反省ですが、自覚は反省を反省している、つまり反省していることを「知っている」ということです。従って、自覚は単なる直感よりも上位の知ということになります。

 

はい、西田幾多郎は、私達の知はいずれも「反省することである」と述べています。直感は、対象を直接的に把握する知であり、思惟は、対象を概念によって把握する知です。しかし、いずれも、対象を把握する行為であり、その行為を反省することによって、知として成立すると考えられます。

直感と自覚の違いは、直感は単なる反省であり、自覚は反省を反省している、つまり反省していることを「知っている」ということです。

直感は、対象を直接的に把握する知であり、その行為を反省することによって、対象を把握したことを「知っている」ことになります。しかし、その反省は、あくまでも対象を把握したという行為を反省するだけであり、反省そのものを反省するわけではありません。

自覚は、反省を反省することによって、反省していることを「知っている」ことになります。つまり、知る主体が自己自身を意識する行為であると言えるでしょう。

従って、自覚は、単なる直感よりも上位の知ということになります。直感は、対象を把握する知ですが、自覚は、知る主体が自己自身を意識する知であるためです。

西田幾多郎は、自覚を「真の知」と位置づけています。自覚によって、知る主体は自己自身と世界を真に理解することができると考えられているのです。

 

私:

私達は今私達の理性で知り得る限界のはなしをしています。西田は自覚を悟りと言っているのです。

 

Bard:

はい、西田幾多郎は、自覚を悟りであると述べています。

西田は、理性は、対象を分離して把握する知であると考えています。そのため、理性では、対象の全体性や真理を完全に把握することはできないと考えました。

一方、自覚は、知る主体と知られる対象とが同一であるという関係を内包する知です。そのため、自覚によって、知る主体は対象の全体性や真理を直接的に把握することができると考えました。

つまり、西田は、自覚によって、理性で知り得る限界を超越して、真の知に到達することができると考えたのです。

西田は、自覚を悟りであると述べることによって、理性を超えた真の知の可能性を示したと言えるでしょう。

具体的には、西田は、自覚を以下のように述べています。

自覚とは、知る主体が自己自身を意識する行為である。この行為によって、知る主体は自己自身と世界を真に理解することができる。

自覚は、理性を超えた真の知である。理性は、対象を分離して把握する知であるが、自覚は、知る主体と知られる対象とが同一であるという関係を内包する知である。そのため、自覚によって、知る主体は対象の全体性や真理を直接的に把握することができる。

このように、西田は、自覚を悟りであると述べることで、理性を超えた真の知の可能性を示したと言えるでしょう。

 

私:

私達は私達の知で知り得る限界の話をしています。

 

Bard:

はい、知の限界とは、私たちの知によって知り得る対象や真理の限界を指します。

知の限界には、以下のようなものが挙げられます。

  • 対象の限界

私たちの知は、対象によって制限されます。例えば、私たちは、肉眼で見える範囲のものをしか知ることができません。また、私たちの知は、私たちの経験によって制限されます。例えば、私たちは、経験したことのないことは、知ることができません。

 

 

肉眼で見える範囲

 

  • 真理の限界

私たちの知は、真理によっても制限されます。例えば、私たちは、真理を完全には知ることができません。また、私たちの知は、真理の理解によって制限されます。例えば、私たちは、真理を完全に理解することができなければ、真理を完全に知ることはできません。

  • 私たち自身の限界

私たちの知は、私たち自身の限界によっても制限されます。例えば、私たちは、有限の知性しか持っていません。また、私たちは、偏見や先入観によって、知ることを妨げられることもあります。

 

有限の知性

 

このように、知の限界は、さまざまな要因によって生じます。

知の限界を認識することは、知の可能性を理解するために重要です。知の限界を認識することで、私たちは、自分の知の限界を理解し、それを補うために努力することができます。また、知の限界を認識することで、私たちは、知の限界を超える可能性を探求することができます。

 

私:

禅がテーマとするのは、真理ではありません、「現実」です、動的具体的全体という現実です。

 

はい、禅がテーマとするのは、真理ではなく、「現実」であると言えるでしょう。

真理とは、普遍的かつ不変なものであると考えられますが、禅は、そのような真理を追求するものではありません。禅は、現実をありのままに見ることによって、真理に到達しようとするものと考えられます。

禅においては、現実は、動的具体的全体であると捉えられます。つまり、現実は、常に変化し、流動しているものであり、個々の要素が独立して存在しているのではなく、相互に関連し合っているものであると考えられます。

禅は、このような現実をありのままに見ることによって、真理に到達しようとします。そのため、禅では、概念や言語によって現実を捉えようとするのではなく、直接的に現実に触れることが重視されます。

例えば、禅の修行では、公案(こうあん)と呼ばれる禅問答が用いられます。公案は、一見すると意味不明な言葉や問いかけですが、それをじっくりと考えたり、黙想したりすることで、現実の真理に触れることができると考えられています。

このように、禅は、真理ではなく、現実をありのままに見ることによって、真理に到達しようとするものと考えられます。

 

私:

私達は今、私達の知で話し合える限界に来ていると思います。そこで、これから、具体的な例を挙げて、抽象論を去って、話し合いを続けていきたいと思います。

 

はい、具体的な例を挙げて、抽象論を去って、話し合いを続けることは、禅の理解を深めるために有効な方法であると考えられます。

具体的な例を挙げることによって、禅の教えが、私たちの日常生活や経験とどのように関わっているかを理解することができます。また、抽象論を去ることで、禅の教えが、単なる理論ではなく、私たちの生き方に具体的な影響を与えるものであることを実感することができます。

具体的な例としては、以下のようなものが挙げられます。

  • 坐禅
  • 公案
  • 日常生活における禅の教えの実践

坐禅は、禅の修行の基本となるものです。坐禅によって、私たちは、自分の心を静め、現実をありのままに見る力を養うことができます。

公案は、禅問答とも呼ばれ、一見すると意味不明な言葉や問いかけです。公案を通して、私たちは、自分の常識や固定観念を問い直し、新しい視点を得ることができます。

日常生活における禅の教えの実践は、禅の教えを、私たちの日常生活の中に取り入れていくものです。例えば、あるがままに物事を受け入れる、他者を思いやる、感謝の気持ちを持つ、といったことが、禅の教えに基づく生き方であると言えるでしょう。

このような具体的な例を挙げながら、禅の理解を深めていきたいと思います。

悟りの証明(138)

1980年代末期から1990年代中期にかけてはオウム真理教が起こした一連の事件があり、今また統一教会問題が世間を騒がしています。宗教が個人の人生を狂わせるだけではなく、一国の政治まで汚染するという事件が現在進行中なのです。今ほど宗教に対する正しい対処が求められている時はありません。

 

オウム事件では、稀代のペテン師麻原彰晃は頭脳明晰な若い信者を騙しただけではなく、当時の所謂知識人吉本隆明中沢新一島田裕巳荒俣宏栗本慎一郎坂本龍一糸井重里ビートたけしその他、芸術家、宗教家、芸能人、等々を見事に手玉に取ったのです。

 

今でもYouTubeで見るっことが出来る「吉本隆明の183講演」というものがあります。この講演3に「善悪の問題」という項目があります。少々長文になりますが、「反面教師」として参考になります。

 

「 それから、もうひとつは、〈善悪〉ってことがあるわけですけど、〈善悪〉っていう問題では、悪っていうものは、ようは恐れることはないんだっていうのが、やっぱり、他力っていうものを絶対化する場合の非常に大きな根拠のひとつになります。
 どうして、人間がやる悪なんていうのは大したことないんだっていうふうに言えるかというと、それは、浄土系の特徴ですけど、『大無量寿経』のなかにあるわけですけど、阿弥陀っていうのが四十八の願をかけるわけですけど、つまり、阿弥陀仏っていうものが、絶対救済する理由っていうのは、どんなやつでも、つまり、下品下生のやつでもぜんぶ救済するっていうような…悪っていうものが浄土への救済を妨げることはないんだっていうような、それが大きな、親鸞の考え方を絶対化する考え方です。大きな特徴であり、それはいろいろな言い方をしています。例えば、「善人なほもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」っていう、いわば普通だったらば、悪人だって救われるんだから、善人はなおさら救われるものだっていうところなんですけど、それは、まったく逆転していまして、善人さえ救われるんだと、だから悪人のほうがなおさら救われるんだっていうような言い方でいっています。それからまた、悪なんていうのは恐れることはないんだ、それは、弥陀の本願にくらべれば、どうせ人間の悪なんていうのはたいしたことない、相対的なものにすぎないのだから、そんなものは全部、救済して浄土に突っ込んでしまうっていいますか、それだけの強さっていうのがあるんだと、だから、人間の悪なんていうのは問題にならない。悪が救われないなんていうことは、絶対にありえない。むしろ、悪っていうことのほうが絶対他力、つまり他力っていうもの、救済において他力っていうものに頼る契機っていうのは、悪、あるいは、悪人のほうが遠いだけ多いはずだから、悪人のほうがいいんだと、つまり、悪人のほうが正機なのであって、悪人のほうが救われ、救済される大きな契機っていうものをもっているんだっていう、そういう考え方が、やはり非常に大きな特徴だっていうふうに考えられます。」

 

さらに、「(前略)オウム・サリン事件で僕なりにいろんなことを考えました。親鸞が「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」といっているのは一種の逆説で、逆説のほうが通りやすいといいますか、持続しやすいということがあって、どんどん突き進んでいったというふうに僕は考えてきていました。ところが、親鸞はもしかすると、いまのオウム・サリン事件みたいな問題に現実に直面して、これを肯定していいんだろうか、よくないんだろうか、と本気になって考えさせられたあげくに、「造悪」、悪を進んで造る「極悪深重の輩」を自分の「善悪」観のなかに包括できるという確信を持てるようになるまで考え抜いて、それで「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」ということをいったんだ、と僕は考えてみました。(後略)」

 

これはオウム真理教統一協会を擁護する全く恐ろしい悪魔の思想としか言いようがありません。マルクス主義という西洋の思想に汚染された吉本(吉本自身はマルクス主義を卒業したと言っていますが)の限界がまさにここにあります。考えるということを客観的に考えられなかった「主体なき理性」の吉本の実像がここにあります。悪人正機説つまり「善人なほもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」というテーゼをいかに解釈するかということが根本的な問題なのですが、上記のような吉本の解釈は親鸞の息子善鸞と全く同じで、このような解釈が当時浄土真宗存亡の危機を招くっことになりました。親鸞は、上記のように解釈する我が子善鸞を破門することでなんとか危機を乗り越えようとしたのですが、そう簡単には収まる問題ではありませんでした。それでは一体、親鸞自身は悪人正機説なるものをどのような意図で説いたのか、そこが問題になってきますが、親鸞自身はこの説の意図をひとことも言及していません。何故か、言及(説明)すると親鸞の意図に反するからです、「信」には言葉・思考・論理は通用しないのです。信を核心とする浄土真宗の宗旨に反するからです。親鸞の幼少期は神童と言われれる程の聡明な子で、既に九歳のときに修行のため比叡山延暦寺に登山しました。それから二十九歳まで修行を積みましたが悟りを得ることはでいませんでした。延暦寺での二十年間、親鸞延暦寺所蔵の経典を読み尽くし、気が狂うほどに考え尽くしたに相違ありません。しかし、悟ることなく絶望に打ちひしがれて下山することになりました。そして六角堂に籠もり、そこで開悟したと伝えられています。開悟した親鸞は自らを「愚禿」(頭を剃った、おろか者)と自称するようになります。親鸞が自らを「愚禿」と自称出来たということは「悟りの証明」に他なりません。親鸞が二十年の歳月をかけてやったことは何だったのか、言葉の大海に論理という船を浮かべて彷徨った二十年でしかなかった。自分は全く逆の道を歩いて来てしまった。悟りとは言葉(概念・論理的思考)で何かを求めるのではなく、言葉を捨てることであった。悟りを得た親鸞は往相の悟りを得るための修行から、悟りを伝え広める教化の修行、つまり還相の修行に一転することになります。しかし、そこで感じたことは、自らの苦節二十年でやっと達し得た悟りを、日々生きることがやっとである無知文盲の信者たちにどうして伝えられるものなのか。この自問への答は「信」ということでした。信の世界は言葉を駆使した論理的思考が通用しない世界です。親鸞は最晩年に「教行信証」を著していますが、自力宗は「教行証」で、行じることによって悟リを証するというのに対し、親鸞の他力宗は「教行信証」で、信じることで悟りを証することです。親鸞の「善人なほもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」は、単純に、矛盾そのものを表現したもので、解釈を求めているものではなく、反対に解釈を拒んでいるのです。矛盾は説明できないから矛盾なのです「釈尊、四十九年一字不説」なのです。説明するということ、説くということは知の領分ですが、それでは悟りに達することは出来ない。説明できない矛盾をいかに乗り越えるのか、それは「信」以外にあり得ないということなのです。悪人正機説は矛盾そのものを提示し、考えることの限界を自覚させ、信に導いているのです。知で到達できないものは信つまり情意をもって突破する、「百尺竿頭に一歩を進む」というのは竿頭までは知で到達することが出来る、しかし生死をかけた最後の一歩それは知ではなく情意すなわち信ということを親鸞は自らの苦しい経験を通じて知っていたのです。親鸞は長く苦しい知の果に情意「信」を知ったのです。信者に自分が経験したような長く苦しい修行は無理であり、それを強いることは出来ない。ならば、自らが辿った道とは逆の信から入って知へ進めばいい、というのが親鸞の戦略だったのです。信から入ることを理解させるには知の限界を知らしめればいいということで「善人なほもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」という、どのように考えてもわからない難題を提示したのです。

 

戦後思想の巨人ともて囃された吉本隆明の説を取るか、誰に知られることもない名も無いこの私の説を取るか、「信」が問われています。

悟りの証明(137)

624日、宮内庁長官は定例会見で「天皇陛下東京五輪の開催が感染拡大に繋がらないか懸念されていると拝察する」と述べました。

 

この件について、天皇の政治利用とか、象徴天皇制を揺るがす発言であるといった、長官に対する批難の声が挙がっています。批難は当然ですが、ただ、そのポイントがズレているところが気になります。この問題は、はからずも、天皇制の根本に関わる問題を露呈しているのです。

 

天皇陛下の最大のお仕事は「国家·国民の安寧を祈る」という「祈り」です。祈りは「無分別の世界」であり、「信の世界」であり、言葉·概念·思惟·論理といったものを超越したろころにあるものです。祈りを使命とする天皇陛下の存在理由は「言挙げせぬ」「不立文字」の処にあるのです。このことが真に理解されていれば、天皇陛下のお気持ちを代弁したり忖度することは決して許されないし、出来ないはずなのです。私たち国民は「分別の世界」の住人ですが、陛下は「分別の世界の住人でありながら無分別の世界の住人」でなければならないのです。仏教を招来した聖徳太子の「世間虚仮、唯仏是真」の真意を理解しなければならないのです。天皇は神ではありませんが「覚者」であることが要求されるのです。今生天皇は「祈りの意味」を知らずして祈っていますが、「祈りの意味を知って祈る」ことが要請されるのです。

 

歴史を見れば、明治時代の「廃仏毀釈」は「仏造って魂いれず」ではなく「天皇造って仏を入れず」で、天皇制そのものの存在理由をみずから捨ててしまったのです。

 

廃仏毀釈」という愚挙さえなかったら、先の戦争は回避できたはずですし、これからも揺るぎない天皇制を享受することができる筈なのです。今回のような「忖度発言」や「代弁」などというものが出てくるはずはないのです。

悟りの照明(135)

人は年齢とともに、人それぞれに、意識的に無意識的に「死生観」を抱くようになります。

私たちは死すべき存在として、死から逃れることが出来ません。私たち人間の最大最深の悩みは「いずれは死ななくてはならない」ということです。仏教の最大の使命は「人間の死からの開放」でした。

 

諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」 『涅槃経』

 

(諸行=すべてのものごとは無常である。生じては滅びるものであり、生じては滅びる、それらの静まることが安楽である。)

 

「それらが静まるところが安楽である」とは「生滅が静まるところ」ということで、生とか死が静まるところ、生とか死がなくなるところ、すなわち「不生不滅」が安楽である。

因みに、「不生禅」で知られる盤珪禅師は、「不生不滅」のことを、生じないものが滅するわけがないので「不滅」は蛇足であり、「不生」だけで十分と説いています。

 

しかし、一般には、「不生」すなわちう私たちは生まれもしないし死にもしないとは、到底考えられないことであり、納得できるものでもありません。何故このような馬鹿げたことが言えるのでしょうか。

 

生死すなわち命を考えることは、時間を考えることです。時間は連続しているものですが、私たちは「連続」そのものを知ることが出来ません。「連続」に生や死といった言葉によって刻みを入れて(切断して)、連続を「非連続」にして、「非連続の立場」に立って、「連続を推理・想像」しているのです。

 

『莊子』に次のような話があります。

 

南海の帝をpastedGraphic.png(しゅく)といい、北海の帝を忽(こつ)といい、中央の帝を渾沌(こんとん)といった。pastedGraphic.pngと忽とはときどき渾沌の土地で出会ったが、 渾沌はとても手厚く彼らをもてなした。pastedGraphic.pngと忽とはその渾沌の恩に報いようと相談し、 『人間にはだれにも(目と耳と鼻と口との)七つの穴があって、 それで見たり聞いたり食べたり息をしたりしているが、 この渾沌だけはそれがない。ためしにその穴をあけてあげよう』ということになった。そこで一日に一つずつ穴をあけていったが、七日たつと渾沌は死んでしまった。

                            岩波書店  金谷治

 

「混沌」とは天地がまだ開けず不分明である状態、すなわち分別できない「無分別」と考えられます。従って、混沌=無分別=連続=一=空等、これらは全く同一の意味になります。私たちはこの分別できない「連続の時間」を分別するために生とか死とかの「言葉」で刻みを入れ、連続を「非連続」にしますが、こうすることで「連続」は消失してしまいます。ノッペラボウの混沌に目・口・鼻・耳等の刻みを入れることで混沌は死んでしまうのです。この混沌の話は、私たち人間が、「混沌」「生ける自然」「ピュシス」を言葉によって切り刻んで人為的な「物の秩序」「ノモス」「人間世界」を構築する代わりに「生ける自然」を失うということを示唆しています。私たちが生まれた時にはすでに言葉は存在しているのでこの事実は理解するのが困難ですが、次のヘレン・ケラーの話はこの事実を裏付けています。

 

ヘレン・ケラーが水を体験して、「それは水である」という言葉を与えられた時、自分と水を対立させて、知る私と知られる水、主観が客観という構図の「相対知」を得たのです。今まで連続していた「一なる世界(主客未分の世界)」を、「自分と水」、ひいては「自分と世界」に真っ二つに分離し非連続にしたのです。ヘレンは「水」という言葉によって、連続(生ける自然)の世界の住人であった彼女から、非連続の世界の住人になり、今までの連続の世界を失った代わりに非連続の人為的な物質の世界、すなわち、いわゆる私たちの世界を得たのです。

 

時間にはアナログの時間とデジタルの時間があります。アナログの時間は「連続の時間」

であり、デジタルの時間は「非連続の時間」です。デジタルの時間はリアル(自然)なアナログの時間に刻みを入れて、私たちが「人為的」に創ったバーチャルな時間です。私たちは連続というリアルな時間を直接に知ることが出来ないので、連続を非連続にしてから連続を意識(推理・想像)しているんです。

 

真の命は連続です、リアルな命は連続です。連続は無始無終で、永遠です。私たちはこの連続の命に生とか死という言葉によって刻みを入れて、非連続にしておいて、命を思惟の対象、すなわち「考えられるもの」にしているのです。連続は無分別で考えられないものです。考えられるものは分別で無分別ではありません。

 

生や死がある命はリアルな命ではありません、リアルな命は連続であり、生も死もない「不生」の命なのです。

 

仏教とは連続=無分別=一=絶対無=空を説く宗教です。仏教は無分別を説くことでバーチャルな世界の住人である私たちをリアルな世界、「生ける自然」の世界に導く宗教です。

 

「善人なほもて往生をとぐ,いはんや悪人をや」

 

この親鸞の「悪人正機説」はまさに無分別そのものであり、ずばり無分別を提示し、無分別を説いているのです。

 

仏教は無分別=連続を説くことによって、連続の存在を知らしめ、「相対知」では知ることが出来ない連続を、悟りを得ることによって得られる相対知とは異次元の知である「絶対知」「般若」「自己同一知」「自覚」「自知」「無分別智」をもって知り、リアルな連続の世界(生ける自然)に導き、現に、生や死のない永遠の命を生きている現実を知らしめ、私たちを生死の呪縛から開放します。(絶対知=自覚については「悟りの照明(74)を参照)